長々と降っていた梅雨の雨も午前中であがると、久しぶりの太陽が雲の隙間から顔を出した。やがて、その太陽の光に追いやられるように雲達は遠くの方へと流れていく。雨上がりの町には昼下がりの柔らかい光が降り注ぎ、いつしか太陽は穏やかな夕焼けとなって町を包むようになる。そんな夕日を西の海に見送ると、夕凪町の頭上には澄んだ星空が広がっていた。
 その星空の真ん中でポカンと浮かんだ月の明かりを浴びながら、瓢箪岩の上で二つの影が揺れている。一つは元気いっぱいに、まるで夏の風を感じる向日葵のように。もう一つは少し気恥ずかしそうに、まるで雲の隙間から恐る恐る様子を伺う月のように。
 二人は何か秘密を共有し合うかのように、寄せ合った影をゆらゆらと揺らしていた。


「ごめんね。なんだかすっかり練習に付き合わせちゃったね」
 時間は少し戻って、ちょうど太陽がオレンジ色にその姿を変えようとする頃。
 まだ少し湿った砂浜で足場を整えながら、咲は額に滲んだ汗を拭った。
「いいわよ。薫は部活だし、今日は咲の店の手伝いも休みだったから」
「ホントに?それならいいんだけど」
 午前中の雨でグラウンドが使えず、ソフトボール部は軽い室内練習を消化して解散となった。だが、もちろん咲はそれだけでは物足りなく、満に付き合ってもらって今に至っているということだ。
「ええ、それに、たまにこうやって運動するとなんだか気持ちいいし」
 乾いた音をたてるグローブで咲の球を受けとめ、ふわりと軽やかに、絶妙なコントロールでそれを返す。
 最近はめっきりパン作りに励んでいるため、運動するのは体育の時間くらい。少し体が鈍ったかなと、ちょうど心配していたところだった。
「もう少し速くても大丈夫かな?」
 何球かボールを交わして肩を暖め終わったところで咲が言った。だが、どうしてか顔はなんだか少し遠慮がち。そんな彼女に、満は小さく吹き出して返した。
「全力でいいわ。でないと練習にならないでしょ?」
「・・あはは、満に聞くのは間違いだったね」
 咲の速球を正面から受けとめる技術に度胸・・満がそれを持っていないはずがなかった。つい口にした愚問に、咲は小さく苦笑い。
「じゃあ、いくよ」
 それから、一つ大きく深呼吸するとすぐにその表情がキリッと引き締まった。つられて満にも緊張感が触れた。
 スッと息を吸うと投球フォームに入る。ゆったりとしたフォームが急に加速したかと思うと、咲の指先から乾いた音が放たれた。
 ボールは先程までとは比べものにならないくらい鋭く風を切り、満のグローブで力強い音と衝撃へと変わる。その違いに満は思わずその目を見開くのだった。
「・・満?大丈夫?」
「・・え、ええ」
 きょとんとしている満に聞くが、球が速くて驚いたわけでも、衝撃が強くて驚いたわけでもない。そもそも、そんなことで驚く満ではないのだから。
 ボールを返すと、再び力強い球が風を切ってグローブで乾いた音に変わる。
 あんな小さな体のどこからこんな力が湧いてくるのだろうか。それが満を随分と驚かせていた。でも、何球か彼女の球を受けているうちに、すぐに分かったことがあった。
 最初からこんな風に投げられたわけではないのだろう。咲はきっと・・・
 一球受ける毎にそれがはっきりとしてきて、なぜだか心地いい。なんだかこのままずっと彼女のボールを受け続けていられればいいのに。そう思った。
「・・満?もしかして付き合わせちゃって退屈してる?」
「・・えっ!?」
 ・・と、そんなキャッチボールの途中でふと咲が言った。どうやら自分でも気づかないうちに見せていた表情を拾っていたようだ。
「なんだか難しい顔してたからさ」
 そんなに難しい顔をしていたのかしら?そんなことを考えながら、眉をひそめている咲にクスリと洩らす。それからとぼけた視線をどこか遠くのほうに飛ばして返した。
「研究してたの」
「・・へっ??」
「だって、この後メロンパンを賭けた勝負があるでしょ?まずは咲のボールを見切らなくちゃ」
 悪戯好きの猫のような表情が咲の視線の中へと戻ってきた。いや、もちろんそんな話は聞いてない。やるにしても、普通の素人ならともかく相手は満である。これでは手の内を見せた咲の圧倒的不利は明確だ。
「・・ねぇ、満さん?なんだかずるくない??」
「ええッ。でも、ずるくても勝てばいいのよ。それに、きっとメロンパンに免じて許されるわ」
 いやいや、おっしゃる意味がまったく分からない。あはは・・と、情けない笑いをこぼす咲。
 そんな彼女にさらに満が挑発的に続けた。
「それならやめとく?わたしに負けちゃったらこの先が心配されるものね」
 悪意はなくても、この猫は随分とタチが悪いようだ。まるで子供のように何か思いついては、かまってくれといわんばかりにちょっかいを出してくるのだ。
 それなら敢えてそれに応えてやるのが大人というものだろう。咲は大袈裟なくらい得意気に胸を張る。
「・・じゃあ、あたしが勝ったら満にアイス奢ってもらうからね」
「あら?それじゃあやる気になったの?」
「だって初めての満に負けるはずないもん。こんなお得な話はないしさッ」
 これが咲が言える精一杯の挑発的な言葉だった。ニヤリと不適にお互いの視線を交える二人。
 こうなるともう、お互いの顔がメロンパンとアイスクリームにしか見えていないようだ。そんなわけで、軽く休憩を挟み、大好物を賭けた一勝負が始まるのだった。
 
 
「じゃあちょっと休憩ッ」
 そう上機嫌に言うと、咲は波打ち際の辺りへと駆けていった。満も後からゆっくりとついていく。
 追いつくと、咲は靴をポイっと脱ぎ捨ててさっそく海に足を浸けていた。海はまだ冷たいだろうに、それほど気持ち良いいのかとろけそうな顔をしている。
「・・んっ?どうかした」
「ううん。冷たくないのかなって」
 そんな彼女に一歩引いたような表情で満が聞いた。
「それがいいんだよッ。運動の後にはこれがいちばんなんだから」
「そうなの?」
「うんッ」
「でも、この前・・運動の後にはアイスクリームがいちばんって言ってたわ」
「・・あはは、そんなこと言ったっけ?」
 頭に手をあて、なんだかもうしわけなさそうに言う咲。こんな小さなことぐらい、別に何か悪いことをしたわけではないのだが。
 そんな様子を眺めながらふと、またもや満の中で悪戯っ子な猫が現れた。
「ええ、それにその前には舞の手作りドリンクがいちばんで、もっと前には・・」
「ち、ちょっとストップ!!満ぅ・・?そんな昔の細かいことはいいじゃん・・・」
 だが、満はチラリと意地悪な視線を情けない表情の咲へと流す。
「どうして?」
「・・だってさ、そんなに真剣に一つだけいちばんを決めなくても・・・」
「ふーん、でも、いちばんって一つだけだと思ってたもの」
「そりゃあ一つだけだけど・・つい使っちゃうの。アレだよアレ!その・・えっと、言葉の・・」
「言葉の縄?」
「そう!それッ!」
「残念ッ。言葉の綾でしょ?・・ふふッ、咲ったら・・ちゃんと勉強してる?」
 まったくこの猫は・・くるくると巧みに手のひらを返しては戯れついてくる。勉強・・そんな聞きたくもない単語に、咲はプイッとそっぽを向いて足元の波を蹴っ飛ばした。
「いいのっ!!それより早く満も来てよね」
 そもそも、それは言葉の綾とは言わないのだが・・それ以上つっこむのは辞めておいた。だってこの咲流の言葉の綾にあやかれば、満だって咲の・・
「今度わたしが勉強教えてあげよっか?」
 素直に靴を脱いでその中に靴下を詰め込む。それから太陽を背にして手を差し伸べてくれる咲の手にちょこんと指先を重ねた。
「教えてくれるの?」
「ええ、わたしでよかったらいつでも」
「じゃあ教えてもらっちゃおうかなッ」
 指先を引かれて足を一歩前に出した。
・・が、そっと爪先に触れた水が思ってた以上に冷たくて、すぐに逃げるように足を引く。
「あははッ、大丈夫だってば。最初はちょっと冷たいけど、慣れちゃえば気持ちいいからさ」
「・・ち、ちょっと咲!?」
 そんな満を焦れったく思ってその指先をキュッと掴み直し、手を引いて自分の胸元へと引き寄せた。その際、勢い余ってよろめいた満はとっさに咲の肩を借りてバランスを保つ。心の準備をする前に海の中へと連れ込まれ、急に感じた冷たさに、思わず咲の小さな肩で力が入った。
「ねっ?気持ちいいでしょッ?」
「・・え、ええ」
 とは返したものの、正直なところなかなか冷たい。
 だが、しばらくしてようやく感覚が慣れ始め、今度は足元から心地よく体の熱が逃げ始めた。つられてフッと肩の力も抜けていき、咲を掴む手が緩む。
 その小さな肩からそっと手を離すと、もう一方の手は控えめに繋がったままクスリと笑い合った。
「咲って面白いことをたくさん知ってるのね」
「あはは、そうかな?」
「ええ、今度・・運動の後のアイスクリームもやってみようかしら」
「それなら今日やっちゃえばいいじゃんッ」
 なんだか上機嫌で言う咲。そんな彼女の隣で、満は規則的にやってくる波の下でさらさらと動く足場を均して遊んでいる。
 ふと咲の方に流れた潮風に促され、その視線をやった。
「一度に二つも試しちゃったらもったいないもの。それに今日はメロンパンが賭かってるでしょ?」
「違うってば!あたしが勝って運動の後のアイスクリームを堪能するのッ!」
「・・ああ、負けた自分に慰めってやつね?」
「だからっ!満があたしに奢るのっ!!だいたい運動後にメロンパンなんか食べたら、逆に喉が乾いちゃうってば」
「あら?きっとそんなことないわよ」
 またもや空気も読まずに突然顔を出し始めた満のアレ。それに付き合うのがめんどくさくなり、咲はパッと手を離してプイッと背を向ける。
「・・満?」
 それから素早くしゃがんで両手で海水をすくうと、無防備な満めがけて大きく放り投げた。
 一瞬、陽の光を存分に貯えて光の粒となる。それはキラキラと宙を舞って満に注ぎ、たちまち頭から彼女を濡らしてはどこかへ消えていった。
「・・ちょっと咲?」
「あははッ、大成功ッ」
 ポタポタと髪から滴り落ちる雫を目で追いながら、咲は大満足に笑っている。
「もう・・これじゃ明日学校に行けないじゃない」
 濡れた髪を後ろで束ねてポニーテールにくくりながら仕方なさそうに一息ついた。
 だが、そのいやに冷静な様子が妙に気になる。きっと満はしたたかにお返しを狙っているに違いない。
「大丈夫だって。制服ならあたしのを貸してあげるからさッ」
「咲のを?」
「うんッ。夏服はね、ストックがあるの」
「でも咲のじゃ・・」
「あーっ!満にならそんなに負けてないんだからね」
 バシャバシャと満に並びかけ、うんと背筋を伸ばしてみせた。
 確かに目の高さは同じくらい・・というより、どういうわけか少しだけ咲の方が高い。もちろん、チラリと足元に視線をやるとすぐにその理由は分かるのだが。
「背伸びしてるわよね?」
「えへへッ、してないよ」
「そんなにいきなり身長が伸びるわけないでしょ?」
 不器用にとぼける咲。そんな彼女の両肩に手を置いて強引にその身長を元に戻してやった。
 ストンと身長が縮み、すぐにいつもの二人の高さに戻る。咲は頬を膨らませて一度ご機嫌ナナメに満の瞳を見上げ、それからすぐにいつもの調子に戻って笑った。
「あはは、バレたかッ。でも、舞や薫はともかく満ならいつか追い越せる気がするんだけどなぁ」
「きっと気のせいよ」
「そんなことないってば。・・あっ、それからさ、この制服を汚しちゃうと満に貸すのが無くなっちゃうから、水かけはもうおしまいね。ついでに休憩もおしまいッ」
 何かかまずいことを言い訳する子供のように、早口でそう言いながらそそくさと砂浜のほうへと逃げていく咲。そんなに走ったら自分で濡らしてしまいそうだと、後ろ姿を眺めながら満はクスリと洩らす。
 それから水かけのお返しと咲の制服を借りることを天秤にかけるが、結果なんて決まっている。そもそも別のお返しを考えればいいのだから。
「・・満?早くやるよ」
「えっ?」
「アイスクリームが賭かってたじゃん」
「ふふッ、メロンパンでしょ?」
 とりあえず今はメロンパンが最優先だ。咲に急かされ、満は一時の休憩に別れを告げて砂浜へと歩いた。


「満、手が逆だよ」
「・・えっ?」
「そうじゃなくて右手が上で左手が下で持つの」
 足で即席のホームベースを描いていた咲がふと見上げ、試しにバットを振っていた満の手元を指差した。
「ちょっと貸して?」
「いいわよ。敵のアドバイスを聞くつもりはないわ」
「これはアドバイスじゃなくて常識を教えるだけだからいいの」
 いつもの調子で拒む満から半ば強引にバットをとりあげる咲。
「右で打つならこうで」言いながらこれがお手本とバットを振ってみせた。「左で打つならこんな感じ」
「ふーん、なかなか様になってるじゃない」
「・・あはは、これでもいちおうソフト部だからね」
 気が抜けた事を言う満に、情けなくそう返しながらバットを渡す。受け取ると教えられた通り二三度振ってみた。確かにこっちのほうがしっくりくるようだ。
「そうそう」満のそのバットさばきに、咲はあははと感心する。「いい感じ」
「本当に?」
「うんッ、でも、ホント満は何でも器用にこなせて羨ましいや」
 そう言いって、ホームベースからマウンドまでの距離を測る。一歩一歩その歩幅を確かめながら少し大股に歩き始めた。その背中を眺めていると、一歩踏み出す毎にスカートがふわりと揺れてなんだか風に踊っているみたい。
 そんな後ろ姿を眺めているとふと試してみたくなる事が一つ。ふわりと歩いている咲めがけてピュッと鋭くバットを振ってみた。
 もちろん満が作った風なんか届くわけもなく、相変わらず咲は風にゆったりと揺れている。そのスカートを悪戯っぽく見ていた満は、何も起きなかった結果に小さく吹き出すのだった。
「満?どうかした?」
 何歩目かに達した時、咲は後手に手を組んだままくるりと振り返っていた。
「ううん、何でもないわ」
「えー、ホントに?だって、さっきすごく楽しそうに笑ってたよ?」
「フフ、それは咲といるとすごく楽しいから」
「・・満?」
「だってタダで食べられるでしょ?」
「・・へっ?」
「メロンパンよ」
 ・・ああ、そういう事か。情けなく、少し不機嫌に肩を落とす咲。こうなったら絶対に勝ってアイスクリームを奢らせてやる。だが、すぐにそう切り替えて闘志を燃やし始めた。
「満、もういい?早く終わらせてアイス食べに行くんだからね」
「ふーん、そうなるといいわね」
 お互い大一番の勝負に備えて足場を作りながらニヤリと見合わせた。
 アイスクリームにメロンパン。お互いそれは絶対に譲れないのだ。そんなわけで、人知れず夕凪の砂浜で、食物につられてプレイボール。
「じゃあ、まずはど真ん中投げるからね」
 足で砂を蹴りながら、右手に握るボールを突き出してそう宣言した。
「そんな事言って、後で後悔しても知らないわよ」
「いいのいいのッ。いくら満でもこれくらいのハンデがないとね」
 余裕たっぷりにそう返すと、構えにはいる。遊びとはいえ、大好物が賭かった真剣勝負。その瞬間、二人だけの小さなフィールドの空気がピリリと引き締まった。
 その雰囲気を感じ取り、満も集中力を高め始めた。小さく息を吐いてグリップをギュッと握り直すと、紅い瞳に静かに気が集まる。
「いくよ?」
「ええ」
 第一球。咲がゆったりと投球フォームに入った。
 ここから先程と同じように急に時間が加速し、指先から放たれる乾いた音に押し出されてボールが風を斬る。それに巧くタイミングを合わせてベースの上で仕留める。たったそれだけ。
 簡単なことだ。
 獲物を確実にその瞳に捕らえた満は、さっき覚えたタイミング通りに鋭くバットを振った。

・・・・・

 ・・が、予定とは逆に、ボールはバットに当たることなくその上を駆け抜けていくのだった。
「よーしッ」そのボールの行方を見送って、咲がピースサインを空高く掲げた。「今日も絶好調ナリッ!」
 確かに仕留めたはずだったのだが。満はバットを見ながら首を傾げている。
「あはは、満?バットのせいじゃないと思うけどッ」
「・・わ、わかってるわよ。だいたいまだ二球も残ってるのよ」
 吐き捨ててボールを取りに走る。ふわりと潮風に揺れるその後ろ姿を眺めながら、咲は上機嫌に何度か投球フォームをチェックし直した。
 空振りをとったとはいえ、やっぱり満は運動神経抜群だと再確認させられた。こんなことなら、アイスクリームじゃなくて、ソフト部入部を賭けておけばよかった。やがて絶妙なコントロールでグローブに返ってくるボールを目で追いながら、胸の中でそう小さく笑った。
「満ーッ、あと二球しかないからね」
「それだけあれば十分よ。次で終わらせるわ」
 ベースの辺りまで戻って来てバットを拾うと、少し納得いかなさそうに二三度振って二球目を急せた。
 タイミングは間違いないし、確かに捕らえたと思ったのだが…先程受けながら確かめた時よりも気のせいか球がホップした感じだ。でも、まぁ次はもう少し上を振ればいいだけのこと。それで今度こそ勝負を終わらせてみせる。
「二球目いくよー!」
「ええ」
「じゃあ次も真ん中に投げるからね」
「そんなに余裕でいいの?今度こそ本当に後悔しても知らないわよ」
「あはは、大丈夫かなッ」
 余裕の笑みで投球フォームに入る咲。満はその手元に神経を集中させた。
タイミングは覚えた。振るのはもっと上。頭の中でそう何度か暗唱する。
 ボールは一球目と同じフォームでその小さな手から放たれた。球筋ははっきりと見えているし、タイミングも一球目と同じで問題無し。
 今度こそ捕らえた。
 目の前に信じた結果に自然と口元が小さく緩む。そして、勝ちを確信してその獲物を仕留めにかかった。

・・・・・

 ・・が、またもやバットには何の手応えもなく、やはり空気だけをスパッと斬るのだった。
「みーちーるッ、2ストライクだよッ」
 予想外の結果に目を丸くして視線をやると、指を二本立ててニヤニヤと笑顔を揺らす咲がいる。これはもう勝ちを確信している顔。
「・・た、たった二球で終わらせちゃったら楽しみ甲斐がないでしょ?」
「ふーん」
「もう咲のボールは完全に見切ったから次で本当に終わりよ」
「ふーん」
「・・な、何よ?その顔は」
「ううん、アイスはいただきかなって。これも経験の差ってやつだね」
 悪戯っぽい笑顔で満の顔を覗き込みながら、両手を腰に当てて足元の砂を均している咲がいる。
 そんな咲からプイと視線を外して、満はボールを拾いに行った。今度こそ確かに仕留めたはずだったのに、やはりバットはボールのはるか下を振っていたらしい。ただタイミングは合ってた確信はある。
 だいたい、世の中には三度目の正直と言う言葉があるくらいで、それはまさに今の自分のために用意されているに違いないのだ。・・と、勝手に思い込んでプラス思考。きっと次で打てるはず。
 ボールを拾い上げると、小さく笑いながらそれを手の上で転がした。それから空にフワリと放り投げて咲のグローブへと返す。
 遠くにそれをキャッチした咲が笑うのを確かめると、秘かに頬を緩めてゆっくりとベースの方に戻った。
「満ーッ、早く次いくよ」
 戻るなり、もうじっとりとした蒸し暑さに負けてアイスクリームが待ち遠しいのか、咲はバットを拾う満を急かしてきた。
「フフッ、三度目の正直で次は打つわ」
「あはは、それで打てたらみんな打てちゃうってば」
「とにかく、メロンパンは譲れないの」
「あたしだってアイスは譲れないんだから。でも次も真ん中で十分だけどねッ」
 得意気にボールを見せると、それをパンパンッとグローブで何度か弾く。一方、満も何度かバットを振って最後にその感覚を確認し直した。
 第三球。満が構えるのを待って、咲も構えに入る。その瞬間、さっきまで和やかだったムードが今日いちばんの真剣ムードへと一変した。
「いくよ?」
「ええ」
 今日、もう何度も見てきたこのフォーム。一瞬目を閉じて、その先からボールが空に舞うまでをイメージする。
 意識の遠くでピュッと、あの聞き慣れた乾いた音を聞いた刹那目を開いた。
 咲の指先から放たれたボールは、力強くさらに鋭く風を斬って走っていた。


「ぜーったいおかしいってば」
「・・何が?」
「だからさっきの一球だってば」
 大きさも色も様々な星達が夕凪の夜空に散りばめられ始める頃、瓢箪岩の上で真逆の方角の空を眺めながら背中合わせに座る二人がいた。
 久々に晴れたおかげで、今日の夜風は嫌な湿気を含まずに心地よい。その風は遠くに聞こえる波の音に合わせては二人の肌を撫で、髪を洗っていった。
 そんな落ち着いたムードなどお構いなしに咲は口を尖らせて言ったのだ。
「・・フフッ、咲?ちゃんと負けも認めなくちゃダメよ」
「だって絶対に何かおかしかったんだもん。・・うん、絶対変だったよ」
 未だ納得いかなさそうにしている彼女。
その様子が背中越しに分かってしまう。でも、背中合わせに座っておいてよかった。きっと並んで座れば全部ばれてしまうのだろう。満はこぼれそうになる笑いをククッと押し込めて隠していた。


 カーンという金属音が砂浜に響く。
 白球はふわりと空に向って舞いあがり、咲の背後でポトリと落ちるのだった。
 これが公式戦ならば完全に平凡な内野フライ。でも、この勝負のルールに限ってはどうやら満の勝ちになりそうだ。
「私の勝ちみたいね?」
 バットでボールの行方を指しながら満はにやりと口元を緩めた。
 一方、咲は納得いかなさそうに首を傾げている。というのも何か違和感があったのだ。確かにボールは咲の後方までふらふらと飛んで砂浜に着陸した。それはまだ認める。だが、その前に満は明らかに振るタイミングが合っていなっかったように見えのだった。
「・・今さ、何かおかしくなかった?」
「何が?」
「なんだかボールが一瞬止まったような感じがしてさ?」
「咲ったら・・ボールが止まるわけないじゃない。きっと気のせいよ」
「ううん、それにあれだけタイミングがずれてたら普通は当たらないってば」
 一球目から二球目への対応の早さからもしかすると満なら三球目は当てるくらいはありうるかもと思っていた咲だが、まさかあそこまで飛ばされるとは。しかも、あの開き直ったかのように適当なタイミングのスイングは経験上絶対に空振りのはず。これは絶対になにか裏があるに違いない。
「とにかく、この賭けはわたしの勝ちみたいね」
 そそくさとその審議を切り上げようと、満は笑ってしまいそうになる瞳の逃げ場を求めて空に逃げる。オレンジがかった今日の空は梅雨を感じさせないくらい澄んでいた。
 きっと今夜は瓢箪岩から見る星がきれいだろう。そんな気がした。
「・・満ってば!」
 ・・と、その声は何度目かでようやく満に届いた。
「んっ?
「何かさ、ずるしたでしょ?」
「・・し、してないわよ」
「ホントにぃー?正直に言うなら今のうちだよ」
「してないってば。何か証拠でもあるの?」
「・・うーん、証拠はないけどさ」
 やはり納得いかなさそうにほっぺを膨らませる咲がいる。そんな彼女を自信あり気に覗きこみながら、その胸の内にあるいたずら心がぽかぽかと暖かくなった。
 でも、実際にずるはしていない。ただ、ちょっとだけ自分の内にある精霊の力を借りただけだ。
 あの瞬間、指先に小さな光が灯った。それから指をクルっと回すとその光が輪っかになる。指先からそっとそれを放つと、光の輪は静かにボールに絡みついて満がいちばん打ちやすい位置でボールをピタリと止めたのだった。
 あとはそれを打つだけ。ただ、咲のボールがこんなにも力強かったことは驚きであって感心だった。
「そっ、じゃあメロンパンは咲の奢りね?」
「うう・・絶対何かあると思うんだけどな」
 髪止めのゴムを口に咥えながら髪を束ね直す満の視線の先で、咲はまだ納得いかなさそうにそこにいるのだった。
 でも、満のなかでは今回の勝負だけははきれいも汚いもないのだ。どんなことをしてでも勝たなければ意味がない。どうしても勝たなければいけない理由があったから。


「咲?もうその話は終わりにしない?これを機に咲はもっと精進すればいいじゃないッ」
「なんだかな・・あんまり負けた気がしないんだもん」
 咲がコツンと後ろから頭を合わせる。それからぐりぐりと満の頭にその不満を押し付けてくる。
「ちょっと咲?痛いってば」
「いいのいいの。今はなんだかこういう気分なんだもん」
「・・もう・・・」
 まぁ確かにその気持ちは分かる。だってこの勝負は実際に満の思いのままにボールを操作された結果だから。遠くの空にぶーぶー言っている咲に、心の中で「ごめんね」と囁いた。
 でも、こんな風にしてきっかけを作らないと、きっとこの胸の中にある想いを切り出せないような気がしたから。膝に置いていた鞄を胸でそっと抱きしめて目を瞑った。
 胸の中のもう一人の自分と静かに語り合う。小さく、ゆっくりと息を吸っては吐いていく。やがて、ぴったりと合わせた背中を押してくる咲にも促されてか、彼女が優しく背中を押してくれた。
 緊張は見せないように、いつもの調子に努めて言う。
「メロンパン・・咲?の奢りだからね」
「もう、満ったら。分かってるってば」
「じゃあ今から買いに行くわよ」
「えっ、今から?」
「もちろんよ。だって約束だもの」
 いつもの満だ。相変わらず無茶な事を言い始める彼女に、咲は「ハイハイ・・」と呆れ半分に合話わせてやる。
「でもさ、この時間に開いてるパン屋さんなんかもうないよ?うちも、もうとっくに閉店しちゃってるし」
「それが今日は特別にあるの」
「・・ふぅん、満はよく知ってるんだね」
 夕凪に長く住んでいて、しかも自分の家は同業者にあたる咲ですら今までそんな店があるなんて知らなかった。ということはよく考えてみれば結構な隠れ名店なのであろう。ならば、咲としてもぜひその店のチョココロネが気になるところだ。
「じゃあ閉まっちゃう前に急いで行こっか」
 思わぬ新発見の予感に、先程までどうもパッとしなかった咲の気分が一気に晴れた。もしかすると初めから満はその店を紹介してくれるつもりだったのかの知れない。
 それならば、こういうときは行動が早いに限る。座ったまま一度うんと伸びをすると、咲はさっそく立ち上がろうとした。
 だが、そんな咲の隣には彼女の制服の裾を遠慮がちに掴む満がいた。
「・・ねぇ、咲?座って」
「えっ、いかないの?」
「・・ええ、もう少しだけここにいたいの」
 裾をもう少し強く引き、咲とは反対側のずっと遠くを眺めたままの満の声が夜風にのって咲に届いた。
「でも、閉まっちゃうんじゃ?」
「ううん、閉まらないわ」
「ホントに?それならいいんだけど」
 満に促されて腰を下ろすと、再び二人は背中を合わせて座った。星の光を浴び、波の音を聞き、風の感触を感じる。時々背中で相手を押してみたり引いてみたり・・お互いを感じる。
「星・・綺麗だね」
「・・ええ」
「そういえば最近ずっと雨だったから星を見てなかったなぁ」
「薫もずいぶんと星空を描きたがってたわ」
「あははッ、じゃあ意外と今頃舞と二人で描いてるのかもね」
「ええ、かもしれないわね」
 重なった肩を揺らし合うと、再び咲が頭を預けてもたれかかってきた。背中の向こうで右手を伸ばす彼女はきっと見上げた夜空の星を掴もうとしているのだろう。
 そんな咲とは対照的に、満は瞼を下ろして高まった緊張を呼吸と一緒に整えていた。咲の制服の裾をキュッと摘まみながら鼓動が落ち着くのを待つ。程なくして、それは少しずつ落ち着いていった。
「・・咲?」
 そして、そのタイミングを逃がさまいと、鞄の中から取り出した袋を半ば押しつけるように咲に手渡した。
「メロンパン二つで100円だから」
「・・えっ!?」
 その袋を膝に置いて振り返るが、満は逃げるようにして視線を合わせてくれない。仕方なく袋を開いて覗いてみると、そこにはメロンパンが二つ入っていた。
「・・満?」
 こんな時間まで開いているパン屋さん。いくら咲でも今まで知らなくて当然だ。きっとそれは本日開店したばかりのまだほんの小さな小さなパン屋さんなのだから。
「・・今日の朝焼いたの。最近、やっと自分でも少しずつ納得できるようなパンが作れるようになってきて」
「うん、満・・ずっと頑張ってきたもんね」
 咲は、朝早くから仕込みを手伝う彼女を知っているし、休憩時間に勉強を欠かさない彼女を知っている。それに、時には遅くまで試行錯誤している彼女を知っている。
「あなたに・・咲に、わたしの最初のお客さんになってもらいの。咲がパン作りのきっかけをわたしにくれたから」
 相変わらず満は顔を見せてくれない。その少し丸まった背中の向こうで彼女はどんな顔をしているのだろうか。
 咲はあははと漏らして、満のポニーテールを軽く引っ張った。
「それにしてもかなりお手頃なパン屋さんなんだね?」
「だってまだ人からお金をもらえるような出来じゃないと思ってるもの」
「あはは、そっか。じゃあたまたま臨時開店に来たあたしは超ラッキーだねッ」
「・・ま、まぁそうかもね」
 きっと照れているのだろうと勝手に解釈。なかなか満は咲の方を向いてくれないのだ。今度は横からお腹の辺りを指でつついてみるが、やはり体ごと向こうを向いたまま。仕方なく咲は受け取った袋を満に返す。
 それから、けして上手くはない演技で満の背中に言った。
「・・あのー、メロンパンあります?今、どーしても食べたいって聞かない子がいて困ってるの。あたし、奢らなくちゃならなくて」
 満は無言で、今さっき受け取ったばかりの袋を手渡した。
「二つでいくらですか?」
「それはさっき言ったじゃない」
「あはは、そうだねッ」
 咲は財布から100円玉を取り出して満に手渡した。
 夜空の下で、たった一人だけの大切な大切なお客のために小さなパン屋さんが開店したのだった。
「はいッ、あたしからの奢りだよ」
「・・ええ、ありがとう」
 袋から一つ取り出すと満に渡す。それから、もう一つは自分の顔の前に持ってきてキラキラとその大きな瞳を輝かせた。
 このパンには満の努力がたくさん詰まっている。しかも、自分のために作ってくれたパンだ。こんな嬉しい事はない。存分に味わって食べなくては。
「じゃあ、さっそくいただきますッ」
 まずは一口。
 咲が食べているのをこっそりと確認しながら、満の手が今度は咲の制服の袖を摘まんでいた。次の一声を待つこの瞬間がいちばん緊張するのだ。
 今、間違いなく咲の口の中で今の自分が精一杯作り上げた味が広がっているはず。口に合わなければどうしよう。そんなマイナス思考だけが胸を駆け巡る。
「・・どう・・・かしら?」
 恐る恐る尋ねる。
「・・うん。きっと満はこれからもっともっと勉強して、悩んで、頑張って・・いつかたくさんの人を笑顔にするパンを焼くんだろうなって。そんな味がしたかなッ」
 返ってきたのは何とも咲らしい真っすぐな感想だった。
「・・咲、ありがとう」
「あっ、これはお世辞じゃないからね。あたしなりに感じたこと」
 久々に見た満の顔は緊張からようやく解放されてか力が抜けたような、少し気恥ずかしそうにするような、そんな笑顔だった。そんな彼女に、咲は眩しい笑顔を揺らす。
 それから、ふたり揃って肩を並べてパンをかじった。
 確かにまだまだ研究し、試行錯誤できる余地がたくさんある。食べながら実力不足な自分に少しだけ恥ずかしくなって俯く満。でも、やっぱり咲に食べてもらえてよかった。だって、咲のおかげで明日からも頑張れるから。ちらりと覗くと、彼女はパンを味わいながら満面の笑顔を揺らしていた。
 ここは夜空の下の小さな小さなパン屋さんなのだ。そのパン屋さんの、椅子もテーブルもない、だが、すべてが穏やかに包まれるオープンテラスで二人は二人だけの秘密を共有し合いながらパンを食べる。
「なんだか一気に疲れたわ」
 ふと、食べ終わるなり、満が言って咲の膝を借りて横になる。お疲れ様・・と、咲も快く貸してやった。
 そんな満の穏やかな紅い瞳に映るのは咲の口元についたメロンパン。それから空にぽっかりと浮かぶお月さま。それをじーっと見ていると、急に頭の上に悪戯の電球が灯った。
 やっぱり満にはこっちの方が性に合っているらしい。
「ねえ、咲?」
「・・んっ?」
「今日のお月さま・・なんだかメロンパンみたいね」
「あっ、ホント・・」
 満に促されて空を見上げる咲。
 その刹那、満の顔がこっそりと咲の顔に近づく。
 それから、ぺろりとその口元のメロンパンをもらうと、いつもの悪戯な笑顔を取り戻してけらけらと笑うのだった。



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