将来の事なんか・・・分からない。想像もつかない。
 たぶん、三年生になる今年の自分も、高校生になった来年の自分も、きっとこんな風に何気ない日常を過ごしているのだろう。学校が終わると美術室で薫と舞と別れ、そのまま部活に向かう咲をグラウンドまで見送る。
 その後は、夕焼け前の残り日で包まれた静かな場所で慣れない読書をしてみたり、寝転がって瞳を閉じて自然を感じてみたり。知り合ったばかりの子猫をそっと抱き寄せてみたり。
 それから、週に何度かは咲の店を手伝わせて貰う。
 たぶんそんな日常が続いていくのだろうし、もちろんこの日常に不満なんかこれっぽっちもない。・・・本当だ。


「いつもごめんなさいね。お店のほうまで手伝わせちゃって」
 そう言ったのは咲の母の沙織さんだ。
 夕暮れ時のPANPAKAパンは随分と忙しい。翌朝のパンを買いに来るお客さんや、学校帰りの学生。それから、家族の誕生日を祝おうとケーキを買いに来るお客さん。沢山の人がこの店の愛情と温もりを求めてやって来る。
 そんな人々の対応で、沙織さんが忙しいのは当然ながら無理もない。なんせ他にも、焼き上がった商品の棚出しまで全て一人でこなすのだから。こう忙しければ猫の手でも借りたいというのも本音だろう。
「いえ、そんなこと全然。いつもお邪魔させて貰ってますし・・これくらい」
 申し訳なさそうに差し出された紙袋を胸元で受け取ると、満は配達先の住所と地図が書かれたメモを二つに折って大切にしまった。
 目的地は二ヶ所。つい最近になって海岸通りの道沿いに新しくできたばかりの少し小洒落たアパートの一室と、それから…。ここからだと、一度坂を登ってから下るあの道が近道だ。
「住所は大丈夫?」
「ええ。この辺りならだいたい分かります」
 控えめにそう訊く沙織さんに、簡単に道順を確認する。どうやら間違ってはいないようだ。
「じゃあ行ってきます」
 そう一言だけ残すと、満は外に足を向けた。その際、ちょうどお店にやってきたお客さんと入れ違いになり「いらっしゃいませ」と、小さく会釈を交わした。
 もう春が目先にぶらさがっているというのに、今日は随分と寒い。店を一歩出ると、二月の乾いた北風がひゅるりと吹きつけ、落ち葉を舞い上がらせて去っていった。
 その寒さに思わず肩をすくめてマフラーを鼻の下までひっぱり上げた。それからコートのポケットから手袋をひっぱり出して準備完了。首と手さえどうにかすれば自転車はなんとかなるらしい。よく分からないが、以前、咲がそんなことを言ってた。
 そのアドバイスを思い出してクスクスと笑いながら、店の横に置かれた咲の自転車に乗る。配達を手伝わせてもらう時はいつも、彼女の自転車を貸してもらうことになっていた。
 自転車は満を乗せてゆっくりと進み始めた。
 店の脇に無造作に積まれた箱の上では、退屈そうにコロネが寝ている。ふと満に気づくと、眠そうな欠伸で見送ってくれる。それから、ガラス戸越しに沙織さんと目が合った。先程は接客に負われて言いそびれたのか、何か言っている。唇を読むと、たぶん「気をつけて」だろう。
 そんな彼女に小さく頭を下げて応えると、「行ってきます」と、微かなオレンジを帯びた空にいる誰かに向かって、満は白い息を吐いた。

 自転車は小さく左右に揺れながらのんびりと進む。
 この道をしばらく走って脇道に入ると、きつい登り坂に差し掛かる。その坂を登りきれば比較的新しい住宅街がしばらく続き、そこを通り抜けて、最後に下り坂を一気に降りれば目的の海沿いの通りへと出られるはずだ。もちろん、他の回り道もあるが、これが最短のルートなのだ。
「・・えっと、確かここを曲がって・・・」
 予定通りそれに続く脇道へ入ると、満はその先に迫った坂道に備えて自転車を加速させた。おかげで最初は勢いよく駆け上がっていくが、半分も登りきらずにその貯金は尽きてしまう。残りは立ち漕ぎで挑むことにする。
 ゆっくりと、まるでその世界で自分だけが時間を縛られてしまったかのように進む自転車。そのかごが左右に振られるたびに、パンが入った紙袋がガサッと音をたてて動いた。
 パン作りはすごく楽しい。この両手で大切に仕込んだ生地が焼き上がっていく姿を眺めているだけで、自然と頬が緩んでしまう。そして、それが口いっぱいに広がった時は格別の想いだ。・・って、これじゃ結局食べるのが楽しいってこと?
「フフッ」
 自分に訊かれて、満は思わず吹き出してしまった。
「まぁ・・否定はできないかしら」
 だって、こんな素人の満が作るパンですら意外とおいしいのだから仕方がない。別に自意識過剰なわけじゃない。薫や舞や・・それに咲だっておいしいと笑ってくれるのだから。
 大介さんと沙織さんには感謝している。気まぐれな猫のようにフラッとやって来る満に、お店が一段落するといつも、休憩時間返上でパン作りを教えてくれる。趣味の域のパン作りなのに…。それで、せめて忙しい時はお店を手伝わせてくれるよう、無理を押して頼み込んだのだった。
 でも、そんなお店の手伝いはすごく楽しい。誰かが笑ってくれるとすごく嬉しい。それに、なにより・・一人っきりの時間が減る。だから、冬空の配達だって、このきつい坂道だってへっちゃらだ。
 坂を登りきると、そのご褒美と言わんばかりの夕日が満を出迎えてくれた。大きくて真ん丸い、それはなんだか金メダルのよう。
 大きく息を吐くと満の体はフッと軽くなった。重い束縛から放たれた自転車もようやく軽快なペースを取り戻す。
 夕凪町はこの時間帯がいちばんきれいだ。トリネコの森も、学校の校舎も、公園のブランコもみんな、夕焼けの鮮やかなオレンジの光を浴びて癒される。住宅街の所々では、家庭の温もりがゆっくりと暖まり始める。色々な生活の薫りや旋律がそこに満ちている。そんな気がした。
 家へと急ぐ自動車とすれ違った。随分と早い仕事帰りだな。買い物帰りの自転車とすれ違った。今日の夕食は何かな?夕凪中の制服とすれ違った。部活・・お疲れさま。赤と黒、二つ並んだランドセルとすれ違った。寄り道ばかりしてちゃダメじゃない。満は何度もクスッと溢しながら自転車を漕いでいく。
 自転車に沿い、猫が塀の上を伝った。塀の下で、番犬が狂ったように吠えながら飛び跳ねた。何をそこまで必死に…。背後に、犬の名前を呼ぶ無邪気な子供の声。遠くの吠え声は何事もなかったかのようにピタリと止んだ。
 やがて住宅街を抜けると、緩いカーブを描く下り坂へと差し掛かった。
 と、ちょうど満の目の前に、高台から望む夕凪の海が広がる。オレンジ色が染み込んだ遠くの水面は、宝石を散りばめられたかのように所々でキラキラと光っていた。それは文句無しの景色だった。薫や舞がここに居れば、きっとこの時間を止めることに夢中になるだろう。そんなことを考えながら坂を下りていく。
(・・夢中に・・か・・・)
 ふと、満の頬を冷たい風がチクリと刺した。
 坂を一気に降りると、車の流れに溶け込むように海岸通りを走った。時折、車がめんどくさそうにセンターラインに寄って自転車を追い抜いていく。
 しばらくその道を走ると、ようやく配達先のアパートが見えた。
 なるほど、確かにいい感じの建物だ。これも近いうち、きっと薫と舞のスケッチブックに描かれることになるのだろう。
(――将来のこと?夢中になれること?)
 ふと、誰かが満の頭の中でそう言った。
「失礼ね」
 自転車を止めて、かごから紙袋を取り出す。歩きながらその建物を見渡した。
「将来はこんな素敵な所に住んでみたい。わたしだって、それくらいは思ってるんだから」
 そう言い返してやった。
 アパートはさすがに新築というだけあり、まだどこも生活感には染められていなかった。独特の新築の匂いが冷たい空気に溶けて満の意識に触れる。
 というより、逆にあまりにも人の気配が感じられなず不安になる。一度メモで住所を確認し直した。やはり配達先は確かにここで間違いないようだ。――ただ、これは後から分かった事だが、実はこのアパートはまだ入居が始まっていなかった。
「・・えっと、二階の・・・」
 乾いた足音が階段を上がって二階の廊下を進み、いちばん奥の扉の前で止まった。
 呼び鈴が静かなアパートに響いた。…返事がない。
 しばらくしてもう一度響く。…返事はない。
 部屋を間違ったかと再度確認し直しても、やっぱりこの部屋で間違いない。試しにドアノブに手をかけてみると、鍵が開いていた。
 ただ、いくら配達と言っても勝手に開けていいものか少し悩む。
(・・でも、次の配達もあるし・・・)
 仕方がない。
 しばらく考えると、少しばかり躊躇いながらも、満はそのドアノブへと手をかけた。


 人は住んでいた。流しの前で鼻歌を唄いながら、その女性はカチャカチャと音をたてている。洗い物をしていたせいで呼び鈴に気づかなかったのだろう。
「・・あ、あの?」
 後ろ手に扉を閉めて、満は躊躇いがちに言った。
 彼女は満に気づかない。
 今度はもう少し大きく息を吸い込む。
「すみませんっ!」
「・・えっ?」
「・・あの、PANPAKAパンです。・・えっと、配達に伺いました」
 満に気づくと、彼女は水を止めて手を拭いた。
「ごめんなさい。水の音がうるさくって」
「・・いえ」
「PANPAKAパンから?」
「はい」
 白いワンピースにカーディガンを羽織っている。随分と綺麗な人だった。控えめにパーマがかかった髪が肩の下まで伸びていて、その表情はクールに冷めているように見えるが、どこか可愛らしさも含んでいる。身長は高すぎず低すぎず、だがスタイルは抜群だ。
 唇を触りながらしばらく何かを考えていた彼女は、言ってくれればよかったのに…。そう誰かに言ってからニコリと満に訊いた。
「・・えっと、いくらかしら?」
「720円です」
「ちょっと待ってて」
 そう言い残して、彼女は奥の部屋へと向かった。その後ろ姿越しにドアの向こうが目に入る。
 奥の部屋は、内装もお洒落なその部屋に似つかわない折畳みテーブルと少し古ぼけた家具が置かれているだけであった。良く言えばシンプル。悪く言えば質素。そんな感じだ。
(・・そう言えば・・・)
 どうしてこんなに生活感に溢れているのだろう。外は人の気配一つしなかったのに。部屋を見渡しながら、満はふと思った。きちんと整頓された食器も、傘立てに無造作に並んだ二本の傘も、玄関の隅の埃でさえも、ずっと前からそこに居たかのように当たり前にそこに居るのだ。
「おまたせ」
「じゃあ、これ・・」
「ええッ、ご苦労さま」
 紙袋を渡して代金を受け取る。満は小さくお辞儀をした。これで一件目の配達は完了だ。次の配達先を頭の中で確認する。
「ねえ?それより・・」
 と、扉に手を延ばそうとした満を、彼女の思わぬ言葉が引き止めた。
「少しあがってかない?」
「・・えっ!?」
「せっかく配達してもらったし、ご馳走するわ」
 そう言って、彼女は紙袋を顔の横で揺らして笑った。ああ、ご馳走と言ってもパンのことか。ただ、そうだとしても満がご馳走になる理由はここにはない。
「・・いえ、そんな」
「遠慮なんかしなくてもいいわ。ちょうど暇してたところだったの」
「・・でも、まだ配達も残ってるし・・・」
 満は当然の躊躇いを見せているが、そんなことはお構いなしに、彼女は勝手に話を進めていく。満の二の腕辺りに、白くてしなやかな手がスッと伸びた。
「でも、少しなら大丈夫でしょ?それに何かあれば、わたしから沙織さんに言ってあげるわ」
「・・えっ!?」
「・・ほらッ、何もない所だけどどうぞ」
 断らなければ。そう思いつつ、どうしてか満は靴を脱いでいた。まるで何かに呼び寄せられるかのように。それから、ご機嫌な彼女に後ろから肩を支えられながら奥の部屋へと招待される。
「お湯沸かしてくるから少し待ってて」
「ええ」
 満をテーブルの前に座らせると彼女は流しのほうへと戻った。
 ふと目に入ったクッションを手に取り、膝の上に置く。それからその上で頬杖をつきながらその部屋を見渡してみた。やはり、シンプルと質素の言葉が行き来した。テレビはなく、替わりにレトロな感じのラジオが置かれている。他に目を引くものと言えば、先程の家具と部屋の隅に追いやられた油絵ぐらいだった。
 何枚かは重ねて壁に立て掛けられ、その隣のイーゼルには、描きかけの油絵が立てられていた。マリンブルーに輝くバックに、岬に建つ赤い灯台。この部屋の窓から見える景色だ。
「実はね・・」
 しばらくその部屋を見渡していると、流しの方から声がした。
「わたしもPANPAKAパンでバイトしてるの」
「・・えっ!?」
「週に二三回くらいね。でも、あなたとは初めて会うわ?」
「・・え、ええ。わたしは臨時のアルバイトだから・・」
 何かを感じ、満は反射的にそう返した。
「そう。だから初めて会うのね?」
「ええ」
 沙織さんったら・・言ってくれれば今日は空いてたのに…。そう呟いて続く。
「・・ねえ?それより、コーヒーと紅茶・・どっちにする?」
「じゃあ・・コーヒーで」
「ええ。わかった」
 この部屋は・・いや、この世界は何かが違う。そんな気がしたのだ。どうしてこんなにも早くお湯が沸くのか?空に浮かぶ雲はもっとゆっくり流れていなかったか?つい最近塗り直したはずのあの灯台の赤は、こんなにも色褪せていたか?辺りを見渡せば見渡すほど、絶対に何かがおかしい。
「・・はい、どうぞ。熱いから気をつけて」
 彼女は、両手にお揃いのマグカップを持って戻ってくると、満の前に座って紅茶を自分の前に、それからもう一つのマグカップを満に差し出した。
「ありがとう」
「ええッ」
 それから、包み込むように持ったマグカップに一口つけてから、パンをテーブルに並べ始めた。
 満はコーヒーに砂糖とミルクを少しだけ入れてから何気なくスプーンを回す。コーヒーの黒とミルクの白は螺旋を描きながら混ざっていった。だが、どうもその渦が回転する速さとスプーンの動きが明らかに合っていないような気がする。
 スプーンを抜くと、熱さと苦さを期待してコーヒーを一口飲んでみる。
 やはり、期待には応えてくれなかった。コーヒーは空気を飲み込むように喉を落ちていく。熱さも苦さも感じないのだ。
 目を瞑り、親指と人差し指で挟むように眉間を強く押してみた。次に目を開けた時、このおかしな世界はきっと変わっているはず。そう思って。
「・・ねえ?先に選んじゃってもいい?」
「・・えっ!?」
 少し恥じらうような彼女の声に、満は目を開けた。
「ほら?その・・パン・・・」
「・・あっ、ええ」
「フフッ、ありがとう。じゃあ・・やっぱりメロンパンよねッ」
 当然何も変わってはいなかった。目の前にはご機嫌にメロンパンに手を伸ばす彼女がいるし、イーゼルに立てられた絵の中には色褪せた見慣れない灯台が建っている。そして、そこには相変わらず熱さも苦さもないコーヒーに口をつける自分がいるだけ。おかしいのはお前だ。そう言わんばかりに、その世界は当たり前にそこにあった。
 そうだ。もうこの世界を認めよう。おかしいのは自分だ。そして満は確かにこの世界にいる。もう一度眉間を押さえながら、満は自分にそう言い聞かせた。
「あなたとは初めて会った気がしなくて・・」
 ふとそう言って紅茶に一口つけ、彼女は続けた。
「少し話してみたくなってね。でも・・どこかで会ったことがあるかしら?」
「・・ううん。たぶん初めてだと思うわ」
「そう。じゃあ、気のせいだったみたいね」
「ええ」
 食べないの?そう聞かれて、満はちょうど目の前にあったチョココロネに手を伸ばした。一口食べてみると、いつものPANPAKAパンのチョココロネの甘さが口いっぱいに広がっていく。なんだか少し安心した。
 一方、彼女はメロンパンを一口噛るたびに笑った。随分と可愛らしく。それは、そのクールな美貌を持て余しているかのような無邪気な笑顔だった。
「ここには一人で?」
「ううん。口うるさい同居人とね。そろそろ帰ってくる頃じゃないかしら」
「えっ、それじゃあ・・」
「フフッ、そんなに気を遣わなくても単なる姉妹よ」
 なんだか可愛らしい気遣いを見せる満に、彼女は小さく吹き出した。
「わたしが無理を言って、勝手にここを借りちゃったの。それからは二人のバイト代でなんとか遣り繰りしてるって感じかしら」
「・・そう。大変そうね」
「フフッ、そうね。でもわたしより、かお・・」
 言い直して続ける彼女。
「・・えっと、彼女のほうが大変かしら。奨学金を受けながら美術の学校にも通ってるのよ」
「・・美術の?」
「ええ。人を笑顔にできるような絵を描きたいんですって。そこにあるのは全部彼女が描いた絵よ」
 彼女は視線で部屋の隅に促し、先程の油絵を示した。人を笑顔にできるような絵を描きたい。どこかで聞いたことがある言葉だ。そして満にはどこか羨ましい言葉。
「見せてもらっても大丈夫かしら?」
「ええ。もちろん」
 満は膝を付いたまま部屋の隅へと移動する。その小さなスペースには油絵の独特の匂いが満ちていて、スンと満の鼻に触れた。
 裏向きに重ねて壁に立てかけられている絵から、そっと一枚起こして覗き込んでみた。大空の樹だ。キャンバスの上で、その大空の樹は春の柔らかい陽光を浴びながら大きくその枝振りを広げている。他にも学校の校舎に海の絵。さらに、そこには満がまだ見たこともない夕凪の姿もあった。
「素敵な絵ね」
「それを聞いたらきっと喜ぶわ」
「本当?じゃあ・・そう伝えておいて」
「ええッ」
 そんな風景画が多い中、隠されるようにいちばん奥に立てられた、描きかけの絵にふと目が止まる。そこにはパン作りに励む少女の後ろ姿がまだモノクロに描かれていた。そのキャンバスを眺めていると、遠い先の、だが、なんだか懐かしい物を手繰り寄せるような不思議な気持ちにさせられた。
 しばらくその絵を眺めてからそれらを大切に戻すと、満は彼女に小さく笑いかけた。
「ホント・・呆れるくらい楽しそうに絵を描くのね」
「その頃はね。もう一日中夢中になるから・・おかげで家事は全部わたしがする羽目になってたのよ」
「・・その頃?」
「最近はなんだか悩んでるみたい。・・ほら?」
 そう言ってイーゼルの絵を指差した。
「その絵はプレゼント用に描いてるの」
「プレゼント?」
「ええ。今度、夕凪町を引っ越すことになった子供にこの町の景色を贈りたいんですって」
「そう」
 改めて見てみると、他の絵と比べ、その絵の上には努力や挫折が色濃く浮かんでいた。だからこそ、そこには優しさや温もりも詰まっている。絵のほうは素人の満でも、それくらいは感じ取ることができた。
 描かれているのは、一日のほんのわずかな時間だけしか見れない、最も美しい夕暮れの刻の夕凪町。引っ越しというタイムリミットに急かされながら、作者はたった一瞬の時間と想いを毎日コツコツと積み重ねてきたのであろう。
「誰かの為に絵を描くって・・」彼女は言った。「自分で好き勝手に描いてる時みたいに上手くはいかないんですって」
「・・えっ?」
「いつもならしないようなミスをしちゃったり・・色々ね」
「でも、きっと・・」
 遠く離れた街で、この絵を見るたび、その子は笑顔になるだろう。きっとその想いが伝わる。
「ええ、だからとてもやりがいはあるし、その先に今まで知らなかった何かを見つけるんでしょうね」
「たぶん・・」その絵を眺めながら満は呟いた。「それはわたしには見たこともない世界ね」
「・・そう。わたしには知ることもできない世界」
「えっ?」
「実は・・恥ずかしながら、わたしもまだやりたいことが見つからなくてね・・」
「・・ご、ごめんなさい」
「フフッ、気にしないで。もう悩み慣れたわ」
 彼女は小さな笑顔を作ってそう言う。
 そういう意味じゃなくて…。満は背中を丸めて心の中でそう呟いた。そういう意味じゃないの。
 だが、それを決して言葉にはしなかった。いや、してはいけない。言ってしまえばこの世界が音も立てずに崩れ去ってしまう。そんな気がしたのだ。
「でも、あなたには・・」
 しばらくの沈黙を挟み、満の震える背中に彼女の優しい口調がそっと触れた。
「まだ、たくさんの可能性があるわ」
「たくさんの・・可能性?」
「ええ。あなたくらいの年なら、何気ない日々の中にいくつもね。もし好きなことがあるなら、今はそれに自信を持ってみたら?大人になるとそういう気持ち・・どこかに置き忘れてきちゃうから・・・」
 やがて、その言葉は優しく満を包み始めた。もしかすると心のどこかでずっと、誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。
 満はイーゼルの絵を眩しい目線で見上げた。この絵はきっと誰かを笑顔に、そして幸せにするだろう。この両手で、自分もできるだろうか?誰かを笑顔にすることができるだろうか?
「・・わたしにもできるかしら?誰かを笑顔に・・・」
「すぐには無理でも、その先に見たことがない世界があるのなら、少しだけでも覗いてみればいいんじゃない?・・って、わたしが言っても説得力がないわね」
「・・ううん。そんなことないわ」
「本当?」
「ええ。何だか少しだけ気分が晴れたもの」
 誰よりも彼女にそう言ってもらいたかった。そして、彼女だから意味がある言葉だったのかもしれない。そっと目を閉じる満。
(――将来のこと?夢中になれること?)
 また誰かが言った。
 もう少ししたら教えてあげる。・・と、今度は少しだけ上を向いて応えることができた。
「・・あら、おかえり」
「・・その子は?」
「んっ、咲の店のアルバイトの子よ。パンを届けてくれたの」
 振り返ると、いつのまにか絵の彼女が帰っていた。彼女もまたずいぶんと美人だった。姉妹でも、背は少しだけ高く、よりクールな印象。だが、やはりその表情の奥に温もりが見え隠れする。そんな感じだ。
 いつドアが開いたのだろう?足音なんかしたかしら?考えかけてやめた。この世界で、そんなことは考えるだけ無駄だから。
 この世界は呆れるほど不可解で、驚くほど心地よい。この世界の全てを明らかにしてしまうのも悪くはないかもしれない。だが、そろそろ行かなくては。今すぐやってみたいことが一つだけ見つかったから。
 それを遣り遂げてから、もう一度このトビラを開いてみよう。今度は何が待っているのだろうか?
「そろそろ行かなくちゃ」
 満は音も立てずにスッと立ち上がった。それから、絵の彼女にも小さく頭を下げる。面食らったような表情を見せる彼女だが、すぐに小さく口元を緩めてくれた。
「もっとゆっくりしていけばいいのに」
「でも、次の配達もあるし」
「・・そう。それじゃ仕方ないわね」
 玄関の扉まで彼女が見送ってくれた。相変わらずクスクスとご機嫌に笑っている彼女に、靴を履きながら訊いた。
「・・ねぇ?また来てもいいかしら?」
「フフッ、もちろんよ。いつでも待ってるわ」
 彼女のことだ。返事なんて分かっていた。
「ええ。それじゃあ」
「気をつけてね」
「ええッ」
ドアノブに手をかけ、次に振り返ることなく、満は扉の向こうへと一歩踏み出した。

 後ろ手に扉を閉めると、静かなアパートは来た時のまま、静けさと新築の匂いに満ちていた。そして、空も何も変わらず、オレンジ色の雲がゆったりと流れている。
 ドアノブに手を掛けてみた。鍵の開閉は確かめずに、あの世界は…。やっぱり考えるのは止めた。
廊下に乾いた足音を響かせ、階段を掛け降りた。それから、咲の自転車に飛び乗ると、すぐに海沿いを走る車の流れへと飛び込む。
 自転車を走らせながらふと、あるものが目に入った。岬に建つ赤く塗り直されたばかりの灯台だ。その姿を見ながら、その光景に額縁がついた気がした。
 時折、車がめんどくさそうにセンターラインに寄って自転車を追い抜いていく。先を急ぐそんな車を眺めながら満は小さく笑った。
「いいじゃない。わたしはこつこつ進んでいくわ」
 そう、こつこつと。とりあえず、まずは彼女とあの絵が教えてくれたことをやってみよう。たぶん、何かが劇的に変わるわけではないだろう。だが、少しだけ変わるかもしれないし、きっとそれもどこかに繋がっているはずだ。
 満は空に向かって大きく深呼吸した。白い息が空に昇って消えていく。
 自転車は軽快に、だが、のんびりと海岸通りを進んでいった。



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