「・・んんッ」 玄関を出たなぎさは満足な笑顔を浮かべながら大きく伸びをした。 ゆっくりと閉まっていくドアの向こうのダイニングからは、団欒に華を咲かせる家族の声が洩れている。 それに耳を傾けながら、彼女は今胸いっぱいの達成感で満たされていた。 (たまには・・) 背後でカチャッとドアが閉まり、賑やかだった部屋がその向こうに消える。 その余韻に浸りながら、一度夜空を見上げた。 (こういうのもねッ) そんななぎさを、街の灯りと光を分け合うように夜空でぼんやりと瞬く星達が出迎え、夏を押しやって少し涼しくなった十月の空気が彼女の頬をそっと撫でた。 ここでのんびりとしていると、先程まで騒がしかった家族団欒の時間がまるで嘘のように思える。 やがて彼女のポケット中で携帯が穏やかなリズムを刻んだ。 「・・うん、分かった。じゃあすぐに行くね」 その返事に、携帯からは通話相手の落ち着いた声が一言洩れる。 パチンとそれを閉じると星達に別れを告げ、彼女は軽快に歩き始めた。 通路を足早に歩いて階段を駆け降りる。乾いた足音が夜のマンションに響いた。 その足音の向かう先は敷地内にぽつんとあるベンチ。 そこでほんのりと灯る明かりの下で、約束の人が待っているはずなのだ。 「ほのかッ!」 小走りのままその彼女に大きく手を振るなぎさ。 「おまたせ」 その姿にほのかも立ち上がると、胸の前で小さく手を振って返した。 お互いの視線が交わると自然と二人の口元が緩む。 ほのかが気になるのはなぎさの報告だ。 「・・ふふ」 なぎさのそれを待たずに、ほのかが意味深に微笑みかけた。 「どうだった?」 「うん、完璧ってわけじゃなかったけど・・なかなかうまくいったよ」 「・・本当に?よかったじゃない。なぎさ」 「あはは、我ながら頑張ったよ」 肩を取り合って喜び合う二人の影が灯りの下で楽しそうに揺れた。 その影は優しい夜風に包まれ、やがてその風に導かれるかのようにベンチへと腰を降ろした。 時間は少しさかのぼって昨日の夕暮れ時―― 秋の夕日が遠くの低い空でまさに今日の役目を終えようとしていた。 真夏とは違い、その夕焼けは随分と穏やかになって町を包んでいる。 そんな街で、長く伸びた影を並べて歩く少女が二人。 勉学に部活。今日一日の疲れを洗い流すかのようにその夕日を心地よく浴び、二人は会話に華を咲かせていた。 「最近暗くなるのが早くなったよね」 「・・そうね。だってもう秋だもの」 「あーあ・・ずっと夏だったらいいのにさ」 両手を頭の後ろで組み、歩きながらつまらなさそうに空を見上げるなぎさ。 東から西にいくほど夜に向かっていくこの空がどうも気に入らないようだ。 「どうして?」 真夏には暑い暑いと文句を洩らしていたなぎさだから、ほのかは聞きながら不思議顔を浮かべた。 「だってさ・・」 そんなほのかに視線を戻し、なぎさは気が抜けたように続けた。 「これからどんどん部活の時間が短くなるんだよ?今日なんてあと一時間は絶対いけたもん」 「それは・・たぶん遅くなったら危ないからって気遣いじゃないかしら?」 「気を使ってくれるならせめて秋の新人戦が終わってからにしてほしいよね」 「そうね・・」 確かに彼女の言い分ももっともだ。まだ空に残っている明るさを測るように、ほのかはチラリと見上げる。 「それは確かに」 「でしょ?とんだありがた迷惑だよ」 「・・ふふ、本当ね。ラクロスの調子のほうはどう?」 「ラクロス?」 前方に車を確認し、なぎさは一度言葉を止めた。 この道は、車一台通るとその横を二人並んで通るのは少々危ないのだ。 道路側を歩くのかの肩を取り、彼女をそっと引き寄せて自分の前を歩かせる。 やがて車が何事もなく通り過ぎると、後ろからさりげなく道路側に周り、再び二人並んで帰路を歩いた。 「ありがと」 「・・えっ!?」 「ふふ、何でもないわ」 隣で何かに浸るほのかを横目に、なぎさは本気で首を傾げている。 結局その意味が分からなかったのか、彼女は一度話しかけたそれを続けた。 「――ラクロスはもう絶好調だよッ」 「ホントに?」 「ホントホントッ!練習のし過ぎでグローブが破れちゃうくらいなんだから」 「ほらっ」と、ほのかの顔の前で手を開くなぎさ。 その手の小指と薬指の付け根の辺りには、まだ真新しいマメがほんのりと赤く乗っていた。 「痛くない?」 「痛いなんて言ってられないかな」 「そっか、もう新キャプテンだもんね」 「あはは・・ってホントはかなり痛いんだけどね」 曖昧に笑ってポケットに手をしまうと、肩をすくめて空を見上げた。 もちろん、その視線の先には先程よりは一段階暗くなってはいるがやはり憂欝を思わせる空が広がっているだけで、結局なぎさは膨れっ面で地面を睨みつける。 それから、その口にため込んだ不満を吐き出すのと同時にポツリと言葉を洩らした。 「・・十月の一大イベントなにのさ・・・」 「えっ?」 「新人戦」 「そうね。でも・・」 そんななぎさを、口元で人差し指を立てながらほのかが機嫌をとった。 「十月はもっと大きなイベントがあるじゃない?」 「もっと大きな?」 「ええ、だって明日はなぎさの・・」 「あっ、誕生日!」 その言葉を遮って、思い出したように言うなぎさを横目にクスリ。 少しだけ彼女の成長を感じたような気がした。 今までならば、十月に入る頃にはもう十日後のことで頭がいっぱいだったはず。 「忘れてたの?」 「だってさ、新人戦のことで頭がいっぱいだったんだもん」 「なぎさにしてはめずらしいわね。でも・・今年も藤村君に祝ってもらえると・・」 「わわっ、ちょっとほのかっ!!」 いかにもわざとらしく続けるほのかに、慌ててなぎさが言葉を挟んだ。 そんな事はお構いなしに、ほのかは意地悪な笑顔でそこにいる。 「祝って・・」 一度クスリと小さく洩らし、なぎさを覗き込むように地面に伸ばした影を意地悪に揺らした。 「もらいたくないの?」 「そりゃあ祝ってもらいたいけど・・・」 「・・けど?」 「今は藤P先輩じゃなくて・・っていうか・・・」 「・・いうか?」 巧みに誘導され、もじもじと俯きながら呟くなぎさには、ほのかのその悪戯な笑顔は確認できない。 「むしろ・・その・・・」 「その??」 「・・って、あたしに何を言わせたいわけ?」 ふと顔を上げ、ようやく彼女のその笑顔に気づいたなぎさは、照れを隠そうとか、プクッと頬を膨らませた。 ただ、そんな姿が可愛らしく、隣の彼女は、この膨れっ面の彼女をもっと困らせてやりたくなる。 「・・ううん」 とは言うものの、明らかに、ほのかには本当にそう思っている様子はなかった。 「別に何もないわよ?」 「んーん、その顔は絶対嘘ついてるよ」 「じゃあ、なぎさは何か心当たりがあるのかしら?」 「気づいてるくせに・・さ」 「何を?」 結局、あくまでほのかはいつもなぎさよりも一つ上の駆け引きをするのだ。 上目遣いに覗き込む彼女の大きな瞳に促され、なぎさは思わず俯いて足元の小石を蹴る。 小石はめんどくさそうに音をたてながら転がった。 「・・・もう・・いじわる」 その音に紛らわすようにポツリと呟くように言い、なぎさはほのかの小指をキュッと取った。 そんな彼女を、「ごめんね」とほのかが自分の元に引き寄せた。 小石は少し転がったところで落ち着き、それを待っていたかのように街灯がもたつきながら点き始める。 空はようやく、部活をするには暗すぎるくらいまで夕日を西に押しやり、二人はその影を地面に溶かしながらしばらく歩いた。 時折、街灯の下に現れる二つの影はいつも一つに繋がって揺れている。 ふと沈黙が二人を包むが、決してそれは気まずいものではない。むしろ心地よささえ含む静寂であった。 「・・あっ!」 ・・と、歩きながら急になぎさが何かを思い出した。 「忘れてた」 「どうしたの?」 「今からほのかの家に行ってもいいかな?」 唐突な話の展開に、まったく話が読めないほのか。 ただ、目で何かを訴えながら両手でほのかの手を握るその様子から、それがなかなか重要な用事に位置付けられていることは伺える。 もちろんそれが重要であろうがなかろうが、ほのかが断るはずもないのだが。 「私は大丈夫だけど?」 「実は前からさ、次の誕生日にしようって決めてたことがあったんだ」 「決めてたこと?」 話の大まかな流れが分かっても、やはりその核心はさっぱりわからない。 続きを興味深々に促すほのかの瞳に、少し照れながらなぎさが言った。 「・・実はね――」 「でも・・なぎさがあんな事を言いだすなんてちょっと感心しちゃった」 並んで座ったベンチの隣で、ほのかが嬉しそうに控えめな笑顔を揺らした。 後ろ手に体を支えて灯りをぼんやりと見上げていたなぎさも、ふとほのかに気づくと、照れくさそうに頭に手をやった。 マンションの敷地内はしんと静まり返っていて、時折どこか遠くを走っていく車の音が、その二人の世界を強調した。 「そんなに」 降りてくるまばゆい光に頬の赤らめを映しながら、なぎさがはにかんだ。 「意外だったかな?」 「・・そうね、でも・・なぎさらしいって言えばそんな気もするかしら」 「あたしらしい?」 「ええッ」 まるで少女の素朴な質問に答えるであるかのように、ほのかはニコリと隣の彼女を覗き込む。 実際、なぎさの大きな瞳は次の言葉を健気に待っているようでもあった。 だが、ほのかは、次の言葉を添える替わりにそっと隣の手に自分の手を重ねるのだった。 「ほのかの手・・あったかいね」 「そうじゃなくて、なぎさの手が冷えてるのよ」 この時期でも、夜にもなればもう随分と空気が冷たくなっている。 「そっか」と小さく笑って納得するなぎさに、「そうよ」とほのかも優しい微笑みを揺らした。 なぎさの手が冷たいということは、自分の手が彼女に温もりを届けているということだ。 今日はなぎさの誕生日。 だから温もりだけでなく、もっともっと沢山のものが彼女の体の芯まで届けばいいと願った。 そんなほのかを隣に、なぎさがそっと口を開く。 「あたし達もさ・・」 そう言いながら、彼女は優しい気持ちで満たされているような気がした。 「いつかはお母さんになるんだよね?」 「・・ふふ、そうね」 「十七年前の今日に・・お母さんもお母さんになった」 「・・ええ」 「きっと大変だったんだろうな」 「でも、なぎさが産まれるために・・」 「・・うん・・・」 やがて同じ温もりを共有するようになった手は、指を絡ませて一つになった。 その感触に気づくと、昨日、痛いだろうに笑いながら見せてくれたマメの他に、なぎさの指にはいくつか絆創膏が巻かれている。 先程は言葉にはしなかったが、これがほのかの思う「なぎさらしい」の印でもあった。 ふと訪れた沈黙が、頭上の灯りに溶け込んで二人に優しく降りてきた。 少し疲れたのか、なぎさはほのかの肩に頭を預けて目を閉じる。 そんな彼女の髪がそっと頬に触れ、ほのかもまたゆっくりとなぎさに身を預けて目をつぶった。 「喜んで――」 ・・と、目を閉じたまま、優しい灯りの中で、静かになぎさが口を開いた。 「喜んでくれたかな?」 「きっとすごく喜んでくれてるわよ」 「でも、上手くできた自信なんて全然ないんだよ?」 「最初から上手くできる人なんていないわ」 お互い目を閉じていても、相手の表情が鮮明に浮かんでいた。 きっとなぎさは自信がなさそうに眉をひそめているだろうし、きっとほのかは穏やかに口元を緩めているのだろう。 それはほのかにだけ見せる特別弱い彼女の姿であって、なぎさにだけ見せる特別優しい彼女の姿だった。 「それに・・」 繋いだ手にギュッと、だが大切に力を込め、ほのかが澄んだ声で続けた。 「毎日を一生懸命生きて、少しずつ成長してるなぎさを伝えられたじゃない」 「あたしの気持ち・・伝わったかな?」 「もちろんよ。手・・こんなにボロボロにしちゃって」 もう片方の手でそっと絆創膏を辿る。 ひんやりとした感覚がその指を辿り、同時に傷口から心地よい感覚が流れ込んできた気がした。 「あはは、明日から練習が大変だよ」 「どうして?」 「どうしてって・・手はこんなだし、グローブは穴が空いちゃってるもん」 「ふふッ、大丈夫。そんなの全然問題ないわ」 「ちょっとほのかぁ?」 目を閉じたまま、目蓋の裏に写る無責任なほのかの笑顔に、なぎさがなんとも情けない声を出す。 「他人事だと思ってさ。この手でクロスなんか握ったらもう・・」 ・・のだが、するりとほのかの手が解けた後に思わず訪れた新鮮で、でも懐かしくしっくりくる感覚に、言葉を止めるのであった。 続けてその手は、もう一方の傷ついた手も優しく守ってやった。 「・・ほのか?」 「目・・開いていいわよ」 「うん」 ゆっくりと目蓋を上げる。 灯りに照らされるのは傷ついた自分の両手では無く、やはりその手には真新しいグローブが着けられていた。 それを隣から覗き込みながら、ほのかが満足に微笑む。 「ねっ?大丈夫でしょ?」 「・・ほのか・・・」 「なぎさ・・」 言葉を探しているなぎさにクスリ、今日いちばん言いたかった言葉にありったけの想いを込めた。 「お誕生日おめでとう。やっぱり誕生日は祝ってもらわなくちゃッ」 そんな彼女に軟らかい感覚が飛び込んできた。 言葉をみつける代わりに、なぎさが全身でその想いを表したのだ。 ただ一言「ありがとう」 ほのかも、頬を擦り寄せてくる彼女の背中に手を回すと、そっと自分の元へと引き寄せた。 「ねぇ、ほのか?」 「なーに?」 「一つ聞いていいかな?」 「ええ、どうしたの?」 手を開いたり閉じたりしてそのグローブの感覚を確かめる。 それは驚くほど彼女の手に馴染み、寸分の狂いもなくぴったりであった。 その首筋に埋めていた顔を上げ、なぎさは茶色がかった瞳を真っすぐにほのかのそれに合わせた。 「どうして一緒に行かなくても分かったの?」 「ふふッ、さてどうしてかしら?」 「どうして?」 「だって・・」 二人の目線の間で白い手が揺れる。 「この手が覚えてたんだもの」 「あはは、そっか。もうどれくらい繋いだかな?」 「そうね――」 一言でも二人の考えが重なるには十分すぎた。 なぎさは再び定位置に頭を埋めてその身を委ねた。 そんな彼女の背中をポンッ、ポンッ、とほのかが鼓動のリズムに合わせて叩いてやる。 人が最も安らぎを感じることができるリズムだ。 まばゆい灯りの下で、その音だけが二人の意識に穏やかに届いた。 そんな優しい世界の中で、ほのかはふと思う。 もうどれくらい手を繋いできたのであろうか、と。 思えば、彼女と出会ってからその手と共に成長してきたような気がするし、今日もまた二人で少し成長した気がする。 そしてこれからもずっと。 「――数えきれないくらい・・かしら?」 ゆっくりとその目を閉じるほのか。 降ろした目蓋の裏で、「実はね――」と、昨日の帰り道のなぎさが言った。 「・・実はね、料理を教えて欲しいんだ」 「えっ、料理?」 いつもの彼女なら絶対にありえない言葉だから、昨日のほのかが思わず聞き返した。 今まで散々、料理という言葉から逃げ続けてきた彼女がどうして急にその気になったのか、記憶のどこを辿っても解らなかったのだ。 「・・って、料理って言ってもそんなに難しいのじゃなくてねっ――」 まるで何か言い訳でも言っているかのように、両手を胸の前で掲げたなぎさ。 不思議そうに固まるほのかを目の前に、何を照れているのか、彼女はいつもより早口に続けていた。 「――その・・あたしでもすぐに作れるようになるのっていうか・・」 「・・ふふッ」 「・・ホント一日で覚えられる簡単な料理でよくてね」 「なぎさ?」 そんな彼女をクスリと覗き込んで、ほのかが尋ねた。 「どうしたの?」 その口調はいつも通りなぎさを安心させる少し甘くて、だが落ち着いたトーン。 あたふたと歩いていたなぎさも、そんな自分に気づき、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。 それから、まだ照れくささを残した口調で続けた。 「ほ、ほら?明日はあたしの誕生日でしょ?」 「ええ」 「でも、それって・・逆に考えたらお母さんがあたしを産んでくれた日だよね?」 「・・ふふ」 その流れでようやく話が分かり、ほのかは一つ納得の相槌を打った。 「そういうことね」 「・・変かな??」 「そんなことないわ。むしろすごくいいことじゃないッ」 「ホントに?」 「もちろんよ」 その背中押しに、歩きながら「よかった」と街灯を見上げたなぎさは、そのぼんやりとした灯りの中でいつもの笑顔を咲かせた。 これがほのかの思うなぎさらしさでもあった。 「じゃあ・・」 歩きながら昨日のほのかが言った。 「さっそく今から練習しましょ」 「うんッ」 それに明るく返すのは昨日のなぎさ。 「メニューは何がいいかな」 見合わせてニコリと笑い合うと、どちらともなく差し出した手が固く結ばれた。 それから、賑やかに計画をたてながら帰路を急ぐ。 昨日の二人が急いだ道には、ほんのりと優しさの気配が残っていた。 |