夕暮れ前の夕凪。 柔らかい夕焼けが町全体を照らしている。学校の校舎は少しもの淋しく、気のせいか、色褪せた金色に包まれていた。 そのどこか隅のほうに感じるもの淋しさは、卒業式を明日に控えているからかもしれない。みんな帰ってしまった学校には、遠くから聞こえる吹奏楽の音だけが、ゆったりと柔らかいリズムで流れていた。 美術室のカーテンがそっと揺れた。今日の風はなんだかいつもより暖かい。 部屋を右から左へと歩く乾いた足音に、制服の衣擦れの音。それから落ち着いた息遣いまでもが遠くのBGMに溶けていった。 「・・ふふっ、これはあの時の・・・」 舞はクスリと溢した。一つ一つの絵には、それぞれへの大切な思い出をしまっていた。それを振り返っては、大切に段ボール箱にしまう。そっと大切に。 色々な物を描き留めてきたスケッチブックを一冊。また一冊と。それから油絵を二三枚、段ボール箱を置いた机の横に立て掛ける。 いつも座っていた椅子の前には、ずっと舞の絵を支続けてくれたイーゼルが、今日はただ空気だけを支えていた。 定位置に静かに座ってみる。座り慣れたこの椅子から見える美術室が少し懐かしかった。天井の染みも、窓際で揺れているカーテンも、この部屋の香りもみんな、いつもと変わらずそこにあった。ただ違うのは目の前のイーゼルだけ。 「お世話になりました」 囁くように語り掛ける。 ポケットからペンを取り出してイーゼルの隅に走らせた。『美翔舞』この名前の下に、次は誰の名前が書かれるのだろう。そのちょっとした落書き、子供みたいな悪戯に自分でおかしくなって、小さく吹き出してしまった。 風に誘われ、窓際に歩いてみた。ここから見える景色とも今日でお別れ。 親指と人差し指をL字状に伸ばす。反対の手でも同じ形を作り、人差し指と親指をピタリと合わせた。出来上がった指の額縁を、片目で覗き込んでみだ。 その額は今日の哀愁深い空を切り取る。その額は懐かしい遠くの木々を切り取る。そして、その額は見慣れた広いグラウンドの遠くのほうでポツンと舞う少女を切り取った。 舞は目を細め、暖かい視線で彼女を眺めた。少女は、誰もいないソフトボールのグラウンドで春の心地よい風に身を任せていた。どこまでも高い空へとうんと手を伸ばしてみたり、片足を軸にコンパスのように地面に円を描いてみたり。ちょうどマウンドの上。そこが彼女の定位置だった。彼女が舞うたびにスカートがフワリと揺れた。 「今までありがとう。あたし・・重かったでしょ?」 そうマウンドに語り掛け、咲は空に向かって向日葵のような笑顔を咲かせた。 このマウンドの土の感触が好き。このマウンドの風の薫りが好き。そして、このマウンドから見上げる広い大空が好きだ。 瞳を閉じたまま大きく両手を広げ、すーっと息を吸った。どこからか、このグラウンドの懐かしい歓声が蘇る。目蓋の裏で、夕焼けに包まれたいつものグラウンドに仲間たちの影が帰ってきた。目は開けないまま、ゆっくりと投球フォームに入る咲。彼女は再びグラウンドで舞った。 目蓋の裏で、優子から三振を奪った。さらに続けてもう一球。 仁美から三振を奪った。 ゆっくりと息を吐きながら、目蓋を上げる。 このマウンドも今日で最後。足元のグローブに収まったままのボールにちらりと目にやる。このグローブとボールにはずいぶんとお世話になった。 「・・さーきッ」 足元のグローブにさり気なく笑いかける咲を、ふと、誰かが呼んだ。まぁ誰かと言っても振り返らずして誰だか分かるわけだが。 「舞?」 「まだ残ってたの?」 「・・うん。ちょっとね。舞もまだ帰ってなかったんだね?」 「ええ。ちょっと・・ね?」「あはは。ちょっとか」 「・・ええ。美術室で私物の整理をしてたの。そしたらグラウンドに咲が居るのが見えて」 「そっか」 マウンドの傍まで歩み寄ると、頬で揺れた髪を触りながら舞は小さく笑った。その上の咲とは、いつもと違って舞が見上げる形。 「なんだかいろんな事を思い出しちゃって・・なかなか捗らなくてね」 「・・うん。なんとなく分かるよ・・その気持ち」 「本当に?」 「あたしもね、今ちょうどいろんな事を思い出してたところだったから。・・それより舞?」 何故かいつもより数歩遠い距離にいる舞に小首を傾げて咲が訊いた。 「どうしたの?」 「だって・・そこは咲の中学生活だから。勝手には登れないわ」 「・・へっ?」 舞は控えめな笑顔を揺らしながら右手を伸ばす。その人差し指の先を追うと自分の足元に辿り着いた。 (あっ、そういうことか) 舞の言葉が伝わる。そんな彼女らしい想いに咲は弾んだ笑顔を返した。 「あははッ、じゃあ、咲ちゃんの特等席に特別に舞を招待しちゃうよ」 「・・いいの?」 「もちろんッ。ほら舞?遠慮しないで」 一歩歩み寄って舞の右手をとると、自分の元へとそっと大切に引き寄せた。広い大空の下で二つのスカートがふわりと揺れる。 揃ってマウンドに登ると、二人は手を繋いだまま自然と肩を寄せ合った。 「これが・・いつも咲が見てた景色なのね」 「えへへ。自分で言うのも難だけど、なかなかいい所でしょ?」 「ええッ、とても素敵」 「・・あたしね、ここが大好きなんだ」 「・・ふふ、それ・・なんだかよく分かるかも」 「ホントに?」 「だって、咲はいつもこの上で眩しいくらい輝いていたから」 そう言ってめずらしく無邪気に笑いながら、下から咲の顔を覗き込む舞。ふと緩んだ視線が交わって、二人で小さく笑い合った。 遠くのほうでは相変わらず吹奏楽のメロディがゆったりと流れていて、それを溶かした柔らかい風が二人をそっと包む。 訪れかけたゆったりと穏やかな時間。・・と、そんな時間の中に急に照れ臭さを見つけて、それを振り払うように咲が慌てて言った。 「・・で、でもさっ、それはちょっと大袈裟だよ」 「そんなことないわよ」 そんな咲に隣で舞はクスリと返す。 「だって、そこに立つ咲を描き続けてきた私が言うんだもん」 「・・うーん、そうかな?」 「でなきゃ、あんなにもスケッチブックが蓄まらないわよ」 「それは確かに・・じゃあ、それもそっかッ!」 結局、咲は照れ臭そうに髪を触るのだった。 「・・ねぇ、舞?」 「んっ?」 「そのスケッチブック・・まだ持ってる?」 「ええ、もちろん」 「じゃあさ、今度見せてもらってもいいかな?」 「急にどうしたの?あんなに自分がモデルの絵は嫌だって言ってたのに」 ずっとモデルを拒まれ続けたから、これはささやかな仕返しだ。悪戯な笑顔を傾けながら舞が訊く。 「・・う、うん。それは今でも恥ずかしいけど・・でも、その・・あたしってどんな顔してここに立ってたのかなって・・ね?」 その紅潮を、頬に金色の夕日を滲ませて紛らわし、少し躊躇いながら咲は口をもごもごさせた。心の中では、(そんなこと言って・・結局いつも勝手に描いてたくせにさ…)そう愚痴を溢す。 そんな羞恥と不機嫌を乗せた咲の肩に、「ごめんなさい」と、舞の肩がそっと重なった。 「・・もぅっ!舞ったらひどいんだから・・・」 「ふふっ、ごめんね。でも、咲はいつもとてもいい表情(かお)をしてたわ」 「・・えっ?」 「この上で笑ったり、怒ったり、それから泣いたり…きっとここには咲の中学生活が詰まってるのね」 どこからか、遠く彼方からやってきた春風がマウンド上の二人の背中を優しく撫でてホームベースの方へと去っていった。 「あははッ、あたし、そんなに泣いたり怒ったりなんかしてないってば」 「そんなことないわよ。だって・・ふふッ、咲ったらすぐに顔に出るんだもの」 「そう・・かなぁ?」 「ええッ」 「うーん・・でも・・・」 確かにこのマウンドの上にたくさんの想いを積み上げ、いつだってそれをこのボールに乗せてきた。だから、もしかするとそうなのかもしれない。 咲は足元のグローブに視線を落とした。ずっと一緒にやってきた彼もまた、咲の証人だった。「舞の言う通りだよ」そう言っているかのようにそれは彼女の足元にある。・・と、そんな咲の視線の先で、舞がそっとそれを拾い上げた。 「ねぇ、咲?」 「んっ?」 「キャッチボール・・しない?」 「・・えっ?舞が?」 「・・へ、変・・かな?」 「ううん。そんなことないよ。でも、グローブ・・」 「ふふッ、そこに置いてたの・・借りてきちゃった」 そう笑って、ずっと後ろ手に隠し続けていたグローブをもう一方の手に持つ咲のグローブに並べた。どうやら後輩の誰かが片付け忘れていた。そんなところだろう。 そんな後輩に仕方なさそうな笑みを溢してから、咲は自分のグローブを胸で受け取り、左手でいつもの感覚を確かめる。 「咲?いいわよ」 ・・と、いつの間にか距離をとっていた舞が手を振って合図を送った。咲にしてみれば少し物足りない感じの距離。でも、たまにはこれくらいもいいだろう。 「うん。じゃあいくよ?」 「ええ」 ボールの影は、どこまでも広く静かなグラウンドの上で、咲の影からゆっくりと大きな放物線を描いた。 「ふふふッ」 「どうかした?」 「・・ううん。意外と難しいなって」 グローブからこぼれ落ちたボールに手を伸ばしながら、舞が笑った。 「あはは、最初はそんなもんだよ。上達の秘訣は練習あるのみっ!・・だよッ」 「でも、咲はいつも簡単そうにしてたから・・もう少しできるかなって思ってたのに」 そう言って、少し残念そうにボールを拾い上げた。 それから、今度はぎごちない放物線が咲の影に向かう。・・が、そのかなり手前で地面に消える。それでも、ボールはなんとか咲の爪先まで転がった。 「・・って、最初から同じようにできちゃったらあたしがショックだってば」 「どうして?」 「だって、その・・そうじゃない?」 随分とゆっくりな言葉の交換が始まった。一球に一言が添えられる。 「ふふふ、咲はたくさん努力してきたもんね」 片方から放たれる美しいな放物線は、もう片方のグローブでこぼれ落ち、返って来るぎごちない放物線は途中で地面に消える。そんなキャッチボールがしばらく二人を繋いだ。 「あははッ・・でも、舞を見てると思い出しちゃうな」 ふと思い出したように、足元に転がるボールにグローブを伸ばしながら咲が言った。それを右手に弾くとフワリと舞に投げ返す。 「えっ?」 「あたしにもそんな時期があったなって」 「どんな時期?」 「んー・・まさに今の舞かな。ボールは届かないし、上手くとれないし」 「・・咲?それ・・なんだか遠回しに傷つくかも・・・」 「大丈夫大丈夫ッ!あたしもそうだったんだからさ」 「・・でも、小さい頃の咲と比べられても・・・」 「・・あっ!」 やってしまった。そう心の中で自分に叱ると、あたふたと頭を掻きながら慌てる彼女。咲は、ゆったりとした言葉の交換と共に流れていた時間をいきなり加速させた。 「で、でもさっ、舞はあたしなんかと違って絵も上手だし勉強もできるし、それから・・」 「・・って咲?そんなに気にしなくても」 「ううん!そういうわけにはいかないよ」 冗談混じりの会話の中で、何をそこまで真剣に謝っているのだろう。でも、それが咲のいつだって真っすぐないいところ。 舞はクスリと洩らした。 きっとこの中学生活、あのマウンドの上で、咲はこんな風に真っすぐ走り続けてきたのだろう。スケッチブックに沢山の表情を残してきた彼女。咲の三年間を、自分の知らない一年間を含めてその上に見た気がした。 「本当に気にしないで」 「・・うーん、でも・・・」 「ふふッ、いいの」 だって、咲が見ていた景色を共有させてくれたから。ふと気づけば、自然と頬が緩んでいた。 「それより少し疲れちゃったかも」 「うん、じゃあこれくらいにしとこっか」 柔らかい笑顔を交わしながらグローブを外すと、咲に一つ合図を送ってグラウンド脇の階段へと歩いた。そこはいつもマウンドの上の咲を描いていた場所。 その舞の穏やかな足取りに併せるかのように、加速し始めた時間が再びゆったりと穏やかな時間へと減速し始めた。 一先ず先に腰を降ろすと、瞳を閉じて自然の気配を感じる。硬いコンクリートの座り心地に少し埃っぽい砂の匂い。不思議と美術室よりも懐かしさが込み上げてくるような気がする。ただいつもと違うのは、校舎の片隅から相変わらず聞こえてくる吹奏楽の穏やかなメロディ。それは少しもの淋しいようで、でも、なんだか暖かかった。 そっと目を瞑ったまましばらくそれに耳を傾ける。・・と、ふと隣で咲の気配が静かに揺れた。 「へぇー、こんな風に改めてここからグラウンドを見渡すのって初めてかもッ」 目を開けて見上げると、咲は眩しそうに細めた目でグラウンドを眺めていた。いつもとは違う位置から眺めるその場所に、彼女は何を想っているのだろう? そんな彼女が隣に座るのを待って、舞が返した。 「ええ、ここからだとよく見渡せるでしょ?投げたり走ったり・・いつも精一杯頑張ってる咲を描いてると、なんだか私まで元気になっちゃうの」 「あはは、そう言われるとちょっと照れちゃうな」 「でも、本当にいつも咲から元気を分けてもらっていたのよ」 「えぇー、ホントに?」 大袈裟に驚く咲に、舞はクスリと洩らす。いつだって全力で頑張ってる咲はきっと、自分だけではなくて沢山の友達に元気や勇気を分けてきたのだろう。彼女のはにかんだ笑顔を見つめながらそう想った。 「うん。本当に」 「でも、あたしもさ、実は舞がここに居てくれると・・その日はなんだかいつも以上に頑張れたんだよね」 「えっ?」 「・・えーと、そのさ・・舞にいいところを見せたいな・・なーんて思ったりね」 「ふふふ、本当に?」 「うんッ、ホントだよ」 照れ笑いを交わしながら、舞の膝の上で二人の手がそっと重なった。その手は咲の方が少し暖かく、急に改まるように二人を繋いだ沈黙の中で、ゆっくりと手のひらの温もりを舞に伝えていく。 「咲の手・・」そんな心地よい沈黙に、ふと澄んだ声が添えられた。「暖かいね」 言ってから照れ臭くなったのか、舞はモジモジと俯いて靴の先を擦り合わせていた。 「だってさっきまでグローブ着けて・・あっ!」 「どうしたの?」 ・・と、言いながら急に何かを思い出し、慌てて重ねた手を離した。そんな咲に舞が覗き込んで訊く。 「・・ほっ、ほら?汗かいちゃったからさ」 「ふふっ、そんな事気にしなくても」 「じゃあ、少し匂うかもしれないでしょ?」 「それも気にしないで。・・って、ちょっと咲!?」 惜し気も無くスカートでその手を拭こうとする咲を慌てて制止した。だってその制服は…。器用に指を絡ませると、二人の手は再び舞の膝の上へと戻された。 「明日は卒業式なんだから汚しちゃダメでしょ」 「えー?じゃあ、それってやっぱりあたしの手は汚いってこと?」 「ふふっ、咲の手・・グローブの匂いがするね」 「・・ねぇ、舞ぃ?」 「ふふふ、ごめんなさい」 なんだか茶化された感じの咲は唇を尖らせて不満顔。一方、顔の前まで持ち上げた手に鼻を近づけ、舞は瞳を閉じたままくすくすと肩を震わせている。 そんな彼女を目の前にしばらく、小麦色の不満顔が突然、ニヤリと悪戯な笑みとなって揺れた。 「ていッ!」 「・・痛っ」 「あははッ、きっと天罰だよ天罰ッ」 ゴツンと鈍い音。それに少し遅れて額を走った痛みに思わず目を開けると、目の前に咲の大きな瞳があった。額は合わせたまま、舞はすぐに視線だけどこかに流してそっぽを向く。 「・・もぅ」 「これでおあいこだよ」 そう言って、悪戯が成功した子供のように笑い、グリグリと額を擦りつけると、すぐに舞の視線が帰ってきた。悪戯も不機嫌もあっさりとどこかへ、お互いの存在だけを見つめてクスリと交わす。 「あははッ」 「どうしたの?」 「舞の手ってさ、絵の匂いがするよねっ」 「・・えっ?そんなわけないじゃない」 「ううん、そんなわけあるよ。絶対するってば」 「・・ち、ちょっと咲?」 スンスンと音をたててその手を嗅ぐ咲は随分と楽しそう。でも、それがなんだか気恥ずかしさに触れて、舞の頬がほんのりと赤く染まっていった。 「だって、この手であんなに上手な絵をたくさん描いてきたんだしさ。自分で言うのも難だけどさ、舞が描くあたしって・・なかなか特徴を捉えてたと思うよ」 「本当?でも、それはきっと咲のおかげね」 「へっ?あたしの?」 「ええ、ここから咲を描き始めるまではどっちかっていうと風景画とか・・そういうのが多かったから・・・」 不意に、遠くの雲の上に幼き日の自分がちょこんと座った。そして真剣な眼差しで膝に置いたスケッチブックと睨めっこしている。少女の家族はとても忙しかった。だから、彼女の傍にいたのはいつも一人っきりの時間だった。それでも彼女はそんな家族を決して困らせはせず、いつだってその一人の時間と向き合った。スケッチブックを抱えては日が暮れるまで素敵な景色を捜し回る。それが彼女の記憶だった。 でも、そんな幼き日の記憶はいつしかこの場所へと繋がっていた。いつだって、誰かを想って絵を描けるこの場所へと。 「じゃあ・・この場所はきっと舞の中学生活なんだね」 遠くを眺める舞の隣で、しばらく何かを考え込んでいた咲が口を開いた。 「・・えっ?」 「あっ!でも、やっぱりそれはさすがに美術室か」 「・・ううん」きょとんとした目でいた舞は、一人で納得する咲の言葉に懐かしそうにその瞳を揺らした。「きっとここだと思う」 「えっ、そうなの?」 「・・うん。もちろん美術室にはたくさん思い出があるけど・・でも、ここで絵を描いていた時間も私の大切な中学生活だったと思うの。ここに来ればなんだか一人で絵を描いてるって気がしなかったから・・いつも咲がいてくれたから」 「・・舞」 訪れかけたのはなんだか少ししんみりとした間。 そんな時間を嫌ってか、はにかんだ舞がめずらしく声を弾ませた。 「ふふふ、お返しッ」 「へっ?」 「咲も教えてくれたでしょ?咲の見ていた景色。だから私からもお返し」 「うん、これが舞が見てきた景色なんだね」 「ええッ。でも、いつもならそこで咲が走り回っているんだけど」 「あははッ、そっか」 舞の中学生活を眩しく眺める咲。そこに自分が映っていることがなんだか嬉しくて頬が緩んだ。でも、二人が出会うまで・・きっと舞はいつも…。ううん、やっぱりそれは自分の胸にだけそっと留めることにした。自分の知らない一年も含めて、彼女の三年間がここにあった。 舞の頭がそっと肩に預けられた。頬で紫がかった髪が揺れている。きっとここなら、その穏やかに閉じられた瞳が目蓋の裏に一人っきりの時間を見ることはないのだろう。 「・・ねぇ、舞?」 「んっ?」 「高校生になっても・・」 ポンポンッと軽く自分の靴を舞のそれに当てながら、咲がはにかんで言った。 「またこうしてグラウンドの傍からあたしの絵を描いてくれる?」 「・・えっ?モデルは嫌じゃなかったの?」 「やっぱりそれもいいかなって。ほら?あたしの頑張りを形に残せるでしょ?それに試合で助けられたこともあったしさ」 ゆっくりと目蓋を上げた瞳が嬉しさに潤んで揺れる。舞がそっと訊き返した。 「本当?」 「うんッ」 「咲・・ありがとう。じゃあ、お言葉の甘えさせてもらっちゃおうかな」 「高校だと簡単にマウンドには登れないと思うけど・・でも、頑張るね」 そのマウンドの上から見える新しい景色を見るため。そして、二人の大切な場所が高校生になっても再び結ばれるために。 「ええ、応援してるわ」 お互い、繋いだ手がなんだかいつもより固く結ばれているような気がした。黄色く色褪せた穏やかな光の中で、見合わせてクスリと笑い合う二人。 誰もいない、どこまでも広く感じる校庭で、ゆっくりと心地よい時間が二人を包んで流れていた。それに溶け込むように、先程まで遠くで流れていた蛍の光の余韻が意識の隅に触れた。きっと後輩達が、自分達を送り出すために練習に励んでいるのだろう。 『卒業』その二文字が二人の頭の片隅に浮かんだ。嬉しいような少し淋しいような・・いや、実感が湧かない。たぶんそんな感じがいちばんぴったりだった。 「あっ・・」 しばらくして蛍の光に続いて穏やかに奏でられ始めたメロディに、舞が口を開いた。 「校歌」 静かな校庭には、遠くから控えめな校歌が響いていた。ずっと聴いてきた、いや、歌ってきたはずの校歌だが、なんだか少し新鮮に感じる。それはまるで、今まで自分に対していかに無関心だったかを生徒達に教えようと、明日という日に向けて存在感を示そうとしているようであった。 「うちの校歌ってさ・・」 ・・と、それに耳を傾けていた咲が、ふと思い出したように言った。 「何気にいい感じだよね」 「うんッ、夕凪の自然を謡ってるとてもいい歌詞だと思うわ」 さらに、両足をぶらぶらと振って広い空を見上げながら、少しもったいなさそうに続ける彼女。 「・・あーあ、でも、どうせなら一回くらい真剣に歌っとけばよかったなぁ」 「ふふふッ」 そんな咲の背中を、くすくすと隣で楽しそうに揺れる微笑みが軽く叩いた。 「じゃあ・・明日は目一杯歌っちゃう?」 「えっ?」 「二人で最後の校歌を目一杯歌うの。みんなが驚いちゃうくらい」 舞にしてはめずらしい提案だった。でも、そんな舞の笑顔も、きょとんと聞いていた咲も、すぐに、その表情がゆっくりと悪戯じみた笑顔へと変わっていく。その子供のような瞳でお互いの心を交わし合った。どうやら、作戦は採用ということで決まりのようだ。 悪戯っぽい声で、こっそりと咲が言った。 「・・歌っちゃう?」 「ふふふッ」 「よーし」 そして、ひょいと軽やかに立ち上がると、どこまでも高い空に向かって一つ大きく伸びをした。 「歌っちゃおっかッ」 「うんッ」 それに続いて舞もスッと立ち上がった。 「舞?もちろん裏切りは無しだからね?」 「咲こそ絶対に裏切ったらダメよ?」 「わかってるってばッ」 念押しにと、小指を立てて差し出された舞の手に咲の小指が絡まる。その指が切られると、二人同時に小さく吹き出した。 「・・じゃあ」咲が言った。「そろそろ帰ろっか」 「ええ。もうみんなとっくに帰ってるしね」 パンパンとスカートの埃を払うと、どちらともなく手を繋いだ。そして、どちらともなくその手を引くと、大きな金色の夕日を背に仲良く二つの影を並べて歩きだす。その影は、当然のように同じペースでゆっくりと揺れた。 時間を忘れてスケッチに没頭した美術室。日が暮れるまでボールを追い掛けたグラウンド。たくさんの想いを刻んだ校舎。明日、その夕凪中から卒業する。 校門にはまだ、うっすらと校歌が聞こえていた。そんな校歌に耳を傾けながら、二人は卒業式を明日に控えた学校を後にした。 |