どこか遠くの方に校庭の生徒達の気配を聞きながら、放課後の美術室のカーテンがそっと揺れている。きっと教室に差し込む初春の柔らかい日差しにまぎれて、穏やかな風がその流れ道をそこに見つけたのだろう。
 出来上がった小さな回廊を進むその微かな風は、一つ一つ、ゆっくりと、教室に置かれたイーゼルの未完成の世界にそっと触れていった。それから、その匂いをたっぷりとその身に含んでやがてその場に落ち着いていく。
 美術室では、艶やかな藍色の髪をそよ風に流す少女が一人、窓際に置いたイーゼルの前で手を動かしていた。
 一度集中モードに入ると周りの世界はほとんど遮断してしまう彼女だが、時々、小さく頭を揺らしてリズムを刻む様は、きっと校庭の隅から聞こえる吹奏楽のメロディがその意識の遠くで流れているからだろう。真剣な眼差しはキャンバスに描かれた世界と窓の外に広がる青く澄んだ大空をしきりに往復し、たまに雲から顔を出した太陽と目が合うと眩しくその目を細めた。
 静けさが落ちた教室には、キャンバスから聞こえてくる乾いた音だけがしっとりと溶けていた。
 ・・と、しばらくして、後ろのドアが静かに開く。
 それを合図に再び美術室の気配がゆっくりと動き出した。グラウンドを臨む窓から教室後ろのドアへと、新しい風の通り道が出来上がり、やがてカーテンを揺らしてやってきた外の気配とそこに留まっていた気配が絡まってその抜け道を静かに辿った。
 ドアを開けた少女は一度瞼を降ろし、いつもの美術室の匂いを確かめるかのようにスンと鼻で息を吸う。頬を優しく撫でていった風が凛とした青い髪を揺らし、その薫りを彼女の陰にそっと置いていった。
 彼女は自分の気配に全く気づかずに絵を描いている舞にクスリと口元を緩めた。相変わらずというかさすがというか・・驚かせないように適度な気配を計りながら近づくと、椅子を一つ引っ張って隣に並べる。
 すると程なくして、どこからともなく降りてきた心地よい沈黙が椅子を並べた二人を包み、そこに流れる時間を少しづつ減速させていった。日常の隅に芽生え始めたゆったりとした空間。そんな中で、その流れと折り合いがついた気配達だけがどこか遠くのほうでぼやけて揺れていた。
 すると、しばらく絵をいていた舞がふと傍に感じた気配に手を止めた。
「・・か、薫さん?」
 突然隣に現れた彼女に驚くわけではない。少し申し訳なさそうに小さく笑いかけた。絵を描いていてふと気づけば隣に誰かがいる・・こんな状況にはもうすっかり慣れているのだ。
「ごめんなさいっ!いつから?」
「・・フフッ、そんなに謝らなくても。来たのはついさっき・・それから、舞が描く絵を見ながらタッチの勉強をさせてもらっていたの」
 そう返し、耳元で髪を触りながら視線をイーゼルの絵に移す彼女。柔らかく差し込んだ陽光がその蒼い瞳のスクリーンで揺れ、そこにキャンバスに広がる大空を映し出した。
「もうすぐ完成?」
「うん、あとはもう少し手直して完成かしら」
 言いながら、舞は引き続き手を動かし始めた。
 そのキャンバスの上には、どこまでも高く澄んだ水色の空が広がっていた。所々でぽっかりと浮かぶ白い雲が揺れ、空から降りてきた風がしばらくの滞在を経て再び空高く昇っていく。その上昇気流に乗って数羽の鳥たちが飛び立ち、やがて途中まで連れ添ったパートナーにサヨナラを告げると、隅に描かれた高台のほうへと舞って行った。
 穏やかな囀り合いが遠くのほうにぼやけると、高台で一人の少女がその世界に溶け込んだ。身に纏うのは白いワンピースにブリム付きの白い帽子。片手で帽子を押さえながら、少女はもう一方の手を大空に向かってそっと伸ばしてみた。その表情はここからでは窺えない。
「・・綺麗な絵」
「本当に?ありがとう」
「ええ、タイトル・・もう決まってるの?」
 彼女は身を乗り出してまじまじとその絵を覗き込んだ。魅せられたのはその鮮やかな色彩。膝で肘を立てて頬杖えをついた横顔がそのどこまでも鮮やかに澄み渡った世界を前に小さくほころんだ。
 同時に舞も同じように目の前のそれを眺めながら、二人の髪を微かに揺らした風に澄んだ声を添え置いた。
「タイトルは・・空への近道」
「空への近道?」
「うん」
 そう、少女はその広い空の下で空への近道を探していた。
 胸の内に灯し、ずっと暖めている密かな想いを言葉へと変換するキーは見つからないまま。それはこれからもずっとそうなのかもしれない。だから、その代わりに少女はその想いを無言のままこの大空へと馳せるのだ。この場所からずっとずっと高い所を目指して。
 その想いは小鳥たちの囀りに誘われてふわりと舞い上がり、やがて、どこからともなくやってきた風に乗って空へと昇っていく。そして、いつしかその風をも追い抜いていくのだ。
「きっとこんな場所で日向ぼっこしたら気持ちいいだろうなって」
「本当にそれだけ?」
「・・えっ?」
 彼女はクスリと口元を緩めて舞を覗き込んだ。蒼い瞳はまるでそこに映った舞の何もかもをお見通しであるかのようである。気づけば舞は、誰も居るはずがないその瞳の中で、誰かに助けを求めて視線を泳がせていた。
「え、ええ」
 だが、そんな彼女にさらに深く覗きこまれ、電気の波が急に跳ね上がるかのように、その空間に流れていた時間が一瞬だけ加速した。
「それだけっ」
「・・そう?」
 少女の想いは空高く昇って色々なものに溶け込む。
 時には晴れの日の心地よい陽光に溶けてあの子の心をぽかぽかと温めるだろうし、時には悪戯に雨に溶けてを憂鬱な気分にさせてみたりもする。時には真っ白な雪に溶けて不意に驚かせてみたり、時には綺麗な虹に溶けて遠くから優しく見守る。そして、時には夜空に浮かぶ月に負けないくらい明るく輝く星に溶けて...
 自分のかけがえのない想いが隅々まで溶け込んだ、そんな世界を大切な人と二人並んで感じていたい。空にいちばん近いその場所で、もしかすると少女はそう願ったのかも知れない。
「ねえ、薫さん?」
 再びゆっくりと流れる時間に包まれた教室で舞が訊いた。
「私にも見つかるかしら?空への近道」
 きっと、少し照れくさそうに目の前の世界に視線を逃した俯きかげんの自分の横顔に小さく笑ったのだろう。クスリと漏らし、しばらくの沈黙に心が和む。
 それから、そっと彼女の口が開いた。
「ええ、見つかるといいわね」
 教室で揺れたのはそんな柔らかい言葉。そして程なくして、心地よい余韻だけを残してそれもどこかへと消えていく。
 その余韻に浸りながら、窓の外に広がったどこまでも高い大空に、舞は澄んだ瞳を細めた。

 


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