まだ残暑残る昼下がりの午後。
 校庭の隅の花壇の前で少女が二人立っている。一人は前髪を頭の上で留め、茶色がかった髪を風に流す彼女。しゃがみこんで目の前の花壇にそっと手を伸ばした。そんな背中を紅がかった瞳にぼんやりと映すのはもう一人の少女。校庭に植えられた木々がその葉を擦り合わせた音に合わせるかのように、ふわりと彼女の夏服の裾が風に踊っていた。
 昨日の雨は今朝早くには上がり、今日は嘘みたいにいい天気だった。
 とはいっても、雲一つない快晴というわけでもない。おおよそ場違いな自分を気にする様子もなく、空には白い雲が堂々と浮かんでいるのだ。片手の指で数えられるほど数少ない雲のうちの一つに隠れていた太陽がその裏から顔を出すと、生まれたばかりの木漏れ日が彼女達を包んで優しく揺れた。耳をすませば、木々や風の囁きが聞こえてきそうな気がする。そんな静かな午後だった。
「・・あーあ」
 ふと、浮かない声がその木漏れ日の中で揺れた震えた。
「しおれちゃったね・・向日葵・・・」
 夏の間、校庭でソフトボールにの練習に励む彼女をいつもこの場所から励まし、勇気づけ、そして何度も笑顔にしてきたその向日葵は今日、いつもの輝かしい姿を見せることなく静かに地面を見つめていた。昨日の雨が原因かどうかは分からない。だが、花びらもほとんど散ってしまっていて、淋しくその細長い影を地面に映していた。
「・・いつかは散ってしまうものだから・・・」
 丸まった背中にそっと声が触れた。いつもは元気いっぱいのその背中は今日、見つめる紅い瞳に曇ったフィルターを降ろすかのように力無くそこでぼやけていた。
「・・うん、そうだよね・・・」
 遠くの方からしっとりと響き始めた蝉時雨は季節がもう秋に向かい始めていることを回りの自然に伝えているようであった。大好きな季節が終わって、やがて新しい季節がやってくる。それが最も分かりやすく目に見える形として咲の瞳に映っているのがその向日葵であった。
「あたしね、向日葵が好きなんだ。・・向日葵が憧れの花」
 首だけを反るように上げて、咲は小さく笑った。形あるものはいつしかその形を亡くしてしまう。彼女が伝えたそれは、きっと咲もきちんと受け入れてはいるのだろう。淋しげだった口調もいつしか消え、その表情にも少しずつ明るさが戻ってきた。
「どうして?」
 つられて彼女が小さく口元を緩めた。
 向日葵はキク科の一年草であって・・と、彼女の頭に浮かんだのはそんな辞書に載っていそうなこと。まぁ、今はそれもどうでもいいことであって。
 いつも向日葵のような咲が、その向日葵に憧れている。それはもっともなことであるような気もするがなんだか不思議な気もした。だから、ふとその理由が気になったのだ。
 訊ねられ、咲は気恥ずかしそうに肩を揺すったが、「えへへ」と小さく笑ってから子供みたいに言葉を並べ始めた。
「向日葵って・・」
 向日葵はいつも太陽に向かって咲いている。太陽が東から昇ると東を向いて元気いっぱいに一日の挨拶をし、南に移動して高々と浮かべば南を向いてその光をめいっぱい浴びて煌めく。それから西の夕日がやがて沈む頃になれば、その姿が海の向こうに消えるまで見送る。もちろん、暖かい太陽が昇らない日だってある。そんな日は落ち込むことなく次に太陽が昇るのをじっと待つのだ。いつだって光に向かって精一杯咲くその花は、なんだかいつも前向きに頑張っていくことの大切さを咲に教えてくれているようであった。
「・・そう、じゃあ咲の前向きさはこの花がお手本なのね?」
「あはは・・あたしはそんなに強くはないけどね」
 だって、いつもどんなことにも前向きに頑張れるわけではないのだ。どうしても後ろ向きになることもあるし、始める前から諦めて逃げ出してしまったことだってある。特に勉強のことについては...そして、やっぱりこれからもそうなのかもしれない。 だから、この花はこれからもずっと彼女の憧れの花として毎年夏になったら咲き誇るのだろう。そして、咲はこの季節を待ち焦がれる。なんだかワクワクと、心が明るく弾むこの暑い季節を。
「夏も・・終わっちゃうんだね」
「ええ、またしばらくお別れね」
 だから、大好きな夏の終わりはなんだかもの淋しいものがある。ほんのわずかな儚い生涯を懸けて、蝉たちが蝉時雨を奏でるステージとして選んだのが夏という季節であって、蛍たちが幻想的な光のダンスを披露する舞台として選んだのが夏である。そして、向日葵が追い続けたその太陽が浮かぶのが夏なのだ。
 もちろん、新しい季節がやってくれば、それとはまた違った趣が周りの世界を色づけて彼女たちの心を優しく撫ぜるのだが。
 それでも、やっぱり大好きな季節の終わりは淋しいものがあった。
「もう一回ぐらい夏が来たらいいのにねッ」
 そう言いいながら、目の前の地面に落ちた茶色の種と黄色の花びらをすくいあげて集めた。手のひらで丁寧に並べられたそれは、やがて小さな向日葵となって最後にそこで甦る。
 そして、子供みたいな笑顔を咲かせながら、咲は彼女を見上げた。二人の視線が交わると、静かに蝉時雨に溶けていく。
 そんな穏やかな世界の中で、咲がもう一度笑った。同時に、二人の間で黄色の花びらが舞う。咲の両手からあの小さな向日葵が空に向けて放り投げられたのだった。それはひらひらと風に揺れていて、その姿にもう一度あの眩しい夏が来ることの奇跡を祈った。まだどこか自分の近くにに落ちているような気がして。
 でも、確かに儚さを連れて夏は終わるのだ。だから、来年の夏までさよなら。大好きな景色たち。憧れの景色たち。
 瞼を閉じれば、金色に輝く向日葵が夏の暑い日差しの下で揺れていた。
「・・咲は」彼女が言った。「咲はいつだって向日葵みたいに真っすぐに太陽に向かって走り続けてると思う」
「・・えっ?」
 茶色の髪の一点を彩った黄色に手を伸ばしながら、彼女が言葉を継いだ。
「だから・・」
 夏の暖かい太陽だけではなく、春の穏やかな太陽に、秋のしみじみとした太陽に、そして冬の冷たい太陽にだって真っすぐに手を伸ばし、少し不器用だけれども真っすぐに走り続けている咲だから、周りの仲間たちに元気や勇気なんかを分けることができるのだろう。
「あはは、そう・・かな?」
 そんな咲に憧れている。さすがに照れくさくて、そう言葉にすることまではできなくて、心の中で小さく笑った。
 指先で摘まんだ花びらに息を吹きかけて、そっと風に還す。それは、校庭にゆるく漂ったチャイムの音に溶け、やがてどこかへと消えていった。
「でも、勉強のほうももう少し前向きに頑張らなくちゃ」
「・・もう、それを言われたら困っちゃうよ」
 背中に掛かった悪戯っぽい声に、立ち上がった咲は愛らしく唇を尖らせていた。でも、また来年、この憧れの花に会うまでに、大嫌いで苦手なところに精一杯手を伸ばし続けてみることを目標にしてみてもいいのかもしれない。隣の優等生と肩を並べて歩きながら密かにそう考えて小さく笑う。
 そして、ほんの少しだけ残っていた夏の気配を忘れないように、咲は深く息を吸った。


短編一覧へ


 



 

inserted by FC2 system